ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

宗教と化したキリスト教

 

 西洋からやって来たキリスト教は、日本人の心を日本国から引き離しました。日本文化を否定し、日本人であることを捨てさせる力があるようでした。

 日本古来からの伝統、お祭りや行事、風習を否定し、西洋のキリスト教の在り方を強要されるかのようでした。日本人のままでは救われません。日本人であることを捨てて、西洋のキリスト教徒のようにならなければなりません。それが、天国人なのです。

 

 日本人の心にある和の心、大和魂を否定しなければなりません。それは、肉の精神だからです。まことの神を知らない日本のしきたりに縛られた親しい日本人から分離して、彼らと和することを捨てなければなりません。

 

 大和魂は傷つきました。神の御救いを得るためには犠牲を払わなければならないとして、歯を食いしばって耐え、心は氷のように冷たく、とげとげになりました。

 愛の宗教と言われるキリスト教の中にある矛盾でした。キリスト教に帰依する以前のほうが愛があったではないか。喜びと自由があったではないか。心の遠くからそんな思いがこちらをうかがっています。

 

 キリスト教徒になることに、多くの犠牲がありました。そして、多くの心の傷を負いました。自分の生活する世界がどんどん狭くなっていきます。自由を失い、楽しみも喜びも去り、重荷だけが重くなっていきます。

 

 キリスト教会は、修行の場となり、心の声に耳を貸す余裕はありません。心の声とは、自分自身の本心です。本心の抱える苦しみを偽って、キリスト教会になじむために努力しました。

 

 イエス・キリストが神の御子であることを信じています。イエス・キリストが愛に満ちたお方であることも知っています。このことを否定することはできません。イエスを離れて過去の生活に戻ることは、希望を失うことです。やっと見出した確かな希望です。イエス・キリスト以外に、こんなに確かな希望と愛を与えてくれるものがほかにあるでしょうか。

 

 イエス・キリストが愛の主であって真実な魂の監督者のもとに帰った確信と喜びは、何によってでも消されるものではありません。イエス・キリストを思うとき、イエス・キリストに出会っていなかった過去に戻ることは、死に等しいことでした。私自身のいのちの拠り所を失うことですから。

 

 次第に、世のことが遠のき、教会内が自分の世界となりました。多くの傷を負って心は強くなりました。傷は、私に神の愛を示してくれます。傷ついたのは、神を呼び求めさせるためであったのかも知れません。神に叫び、泣きわめきました。神の優しいまなざしが、私の傷ついた心を慰めてくださいます。

 

 キリスト教会は神の家ですが、家長が神であるとは言いきれません。神の御支配される場所であるのに、人間の思いが入り乱れています。キリストの御霊によって満たされていないからです。

 

 神は、キリストが与えられる真理の御霊によって、神の御心を知らされます。おのおのに分け与えられたキリストの御霊は、ひとつの御霊です。父なる神に忠実で、キリストの思いを知らせ、人を生かしていのちを与えるキリストの御霊です。

 

 御霊は、神の預言の霊に従います。御霊に聞き従う者は、御霊にあって同じ方向(神の主権)に向くのです。そして、御霊のことばのうちに平安を与えて混ざり物を見分ける力を育ててくださいます。

 

 キリスト教会は宗教の一つなのです。宗教ではない、真理なのだ、と言いながら、人間の教えとなっています。聖書の真理を人間の知恵と知識とで求めたユダヤ教も、宗教となりました。

 

 宗教は、地に属する人間に、理解を促す地の教えです。地の上に立って、天をめざします。しかし、真理は、天から来た神の教えです。神は、神の御子イエス・キリストを救い主として仰ぐ人のうちに御霊をお与えになります。御霊は、キリストの御霊であり、天から来られた真理を教えるもうひとりの助け主です。

 

 神は、御子イエスを遣わし、地に住む人々に、天の御国について知らされました。天に属する教えです。罪を取り除く贖いのわざ(十字架のみわざ)を成し遂げて天に引き上げられた救い主イエス・キリストに代わって、次に神は、もうひとりの助け主、聖霊を遣わされました。キリストの御霊です。また、真理を教える真理の御霊です。

 御霊はキリストのことばで真理を示されます。人間の言葉が混じることはありません。真理の御霊に導かれる人々は、御霊の教会に属します。

 

 かつて、カトリックの遠藤周作さんが、どの宗教であっても、行き着く所(目指す所)は同じだ。それぞれの宗教が山頂を目指してそれぞれのルートを辿って登っているだけであって、実は同じ山頂に辿り着く、というような考えを持っているというのを、何かの記事で読みました。

 

 私は激しく反発しました。「救われるのは、神の御子イエス・キリストを信じるキリスト教だけだ。なんで、遠藤周作さんは、こんなことを言ってしまうのだろう。」と。私は宗教のキリスト教の教えの中にいたのです。

 

 今になってみれば、遠藤周作さんの考えに真理があることが理解できます。真理は隠されたものでした。聖書をキリスト教だけが正しいという宗教の観念で読めば、イエス・キリストを主と告白することが救いであり、イエス・キリストの御名の中にだけ救いがあるととらえることができます。

 しかし、宗教のキリスト教の教えから外れて、真理の御霊の教えられる神の愛によって読めば、真理を求めるすべての人々に神の御救いの道が用意されていることに思いが行きます。

 

 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛(赦す心、和解の心)のない者に、神はわかりません。(神に熱心であると思っていても、愛がないのならば、神とともにいないのです。)なぜなら神は愛だからです。」(ヨハネ第一4:7,8)

 

 日本には、日本特有の神道があります。神道は、神に至る道であって、人間は神ではなく神が神として人間を治められることを人間の生業としており、神を敬い、神を神として崇める心を持つ道です。

 

 あるユダヤ人は言いました。日本には、神道、仏教、キリスト教など様々な宗教があるように見えて、実は、日本教しかない。日本人が信じているのは日本教である。仏教が日本に入って来ても、ほかの国の仏教とは異なるものとなる。儒教が入って来ても、それは日本特有のものとなる。キリスト教が日本に入って来ても、やはり、ほかの国のキリスト教とは異なるものとなる。すべての真理の教え、また宗教は、神道を根底に持つ日本人の魂(大和魂)によって、融合され、それは一つのもの(日本教)となる。

 すなわち、日本人の心には、日本教として根づいている自然崇拝のような独特な感性があり、そして、仏教、儒教、キリスト教は、日本においては、日本教仏教派、日本教儒教派、日本教キリスト教派、というように、日本教の分かれた宗派のようなものとなっており、日本人には日本教しかない、と言っています。

 

 確かに、日本人のうちには、どんな宗教に属している人にも共通の日本人独特の心があります。大和魂と呼ばれる、目に見えない崇高なるものを畏れ、感謝しへりくだる心です。また、外国のものであっても価値ある良いものを評価して尊重し取り入れる寛容さです。

 

 神道は宗教ではなく、すべてを包み込む大いなる神々であり、人間を支配される大いなる神と和する心と、自然と調和する平安と、すべてのものに満ち満ちた聖なる神を礼拝する心です。

 

 日本には、八百万の神と言って、すべてのものに神が宿るという思想があります。そのことをもって、一神教の宗教は、神道は真理ではないと思うかもしれませんが、神道のいう神々とは、多くの神々の名前を持つだけのように思います。すなわち、おひとりの生けるまことの神の現われ方に応じて様々な呼び名があるだけで、実は、天地万物を造られた大いなる神に仕えているのだと思います。

 

 神道は、すべての宗教を覆う不思議な寛容さと、自然と調和する愛と、目に見えない神を敬い真理にへりくだる聖さがあると思います。キリスト教もこれにはかなわないことでしょう。神道は、日本列島にしっかりと立つ不動の精神です。長い歴史の中で、日本人が大切に受け継いで来た大和魂であり、神とともにある神の道です。

 

 世の終わりには、やはり、この日本から救いが起こるのだと思います。そして、その時が来れば、神は日本国を贖ってくださるでしょう。そして、神道に、仏教に、キリスト教に、また、日本列島にキリストの血を注いで贖い、大和魂や宗教の中にいる人々の思いに働き、真理を求める人々に、どの宗教に属する人であってもまことの神を知らせ、彼らに悔い改める心を与えて真理の御霊を注ぎ、神に近づく者とされるでしょう。

 

 贖われた人々は、悔い改めとともに、真理の御霊によって神の真理を悟り、御霊によって御霊の教会の神の子どもに整えられるのでしょう。

 

 救われるのは、キリスト教でもなく、仏教でもなく、神道でもなく、宗教でもなく、真理の御霊を受ける人々です。日本には、神を知らせ身魂磨きを勧め、神の道を歩む神の集団がいるのです。