ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の教える真理は父に従うこと

 

 イスラエルの敵であるアラムの王ベン・ハダテは、イスラエルに勝てないことを知ると、命乞いのためにイスラエルの王アハブのところに家来を送りました。家来たちはアハブ王のもとに行って願いました。

 「あなたのしもべ、ベン・ハダデが、『どうか私のいのちを助けてください。』と申しています。」すると、アハブ王は言いました。

 「彼はまだ生きているのか。彼(ベン・ハダデ王)はわたし(アハブ王)の兄弟だ。」彼らは、これは吉兆だと見て、すぐにその言葉により事が決まったと思い、「ベン・ハダデはあなたの兄弟です。」と言いました。そして、アハブ王はベン・ハダデを連れて来るように言いました。

 

 ベン・ハダデはアハブ王に父がアハブの父上から奪い取った町々を返すと約束すると、アハブ王は彼と契約を結んで去らせました。

 

 「預言者のともがらのひとりが、主の命令によって、自分の仲間に、『私を打ってくれ。』と言った。しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。

 それで彼はその人に言った。『あなたは主の御声に聞き従わなかったので、あなたが私のもとから出て行くなら、すぐ獅子があなたを殺す。』その人が彼のそばから出て行くと、獅子がその人を見つけて殺した。

 ついで、彼はもうひとりの人に会ったので、『私を打ってくれ。』と頼んだ。すると、その人は彼を打って傷を負わせた。 

 それから、その預言者は行って道端でアハブ王を待っていた。彼(預言者)は目の上に包帯をして、だれかわからないようにしていた。

 王が通りかかったとき、彼はアハブ王に叫んで言った。

 『しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人がひとりの者を連れてやって来て、こう言いました。「この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにあなたのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。」ところが、しもべが何やかやしているうちに、その者はいなくなってしまいました。』

 すると、イスラエルの王アハブが彼(預言者)に言った。

 『あなたはそのとおりにさばかれる。(いのちか銀か)あなた自身が決めたとおりに。』

 彼(預言者)は急いで、包帯を目から取り除いた。そのとき、イスラエルの王は、彼が預言者のひとりであることを見た。

 彼(預言者)はアハブ王に言った。『主はこう仰せられる。「わたし(神)が聖絶しようとした者(アラムのベン・ハダデ王)をあなた(イスラエルのアハブ王)が逃がしたから、あなた(アハブ王)のいのちは彼(ベン・ハダデ王)のいのちの代わりとなり、あなたの民(イスラエル)は彼の民(アラム)の代わりとなる。』」(列王記第一20:35-42)

 

 まず、神は、預言者のともがらのひとりに、仲間から打たれて傷を負うようにと命じられました。その預言者は主の命令に聞き従って、自分の仲間の預言者に自分を打ってくれと頼みました。

 

 しかし、その人は、彼を打つことを拒みました。彼は、神の声を聞いていなかったようです。このことが、神から出ていることを知ることができませんでした。

 すると、預言者は、「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、あなたが私のもとから出て行くなら、すぐ獅子があなたを殺す。」と告げ、その通りになりました。

 預言者であっても、神の声を聞いているわけではないようです。あるいは、神のことばを受けつつも、自分の信仰と合わないことばに耳を塞いでしまったのでしょうか。もし、そうであるならば、彼は、神よりも人を思うわなにかかってしまったのでしょう。

 

 神のことばの内容の善し悪しではありません。神から出た言葉には、聞き従わなければならないのです。これが、イスラエルの神なのです。神のことばに聞き従うことが、人の義なのです。

 

 神に聞き従わないで、獅子に殺されたひとりの神の人のことが、列王記第一13章にも書かれています。

 彼は主の命令によって、ユダからべテルにやって来ました。

 

 「(北イスラエル王国の)ヤロブアム王は香をたくために祭壇のそばに立っていた。すると、この人(南ユダ王国からやって来た神の人)は、主の命令によって祭壇に向かい、これに呼ばわって言った。

 『祭壇よ。祭壇よ。主はこう仰せられる。「見よ。ひとりの男の子がダビデの家に生まれる。その名はヨシヤ。彼(ヨシヤ王)は、おまえ(祭壇)の上で香をたく高き所の祭司たちを生贄としておまえの上に献げ、人の骨がおまえの上で焼かれる。」』

 ヤロブアム王は、べテルの祭壇に向かって叫んでいる神の人のことばを聞いたとき、祭壇から手を伸ばして、『彼(神の人)を捕えよ。』と言った。すると、彼に向けて伸ばした手はしなび、戻すことができなくなった。」(列王記第一13:1-4)

 

 王は神の人に祈りを求めると、神の人が主に願ったので、ヤロブアム王の手は戻り、前と同じようになりました。

 王が神の人に食事をさせようとしましたが、神の人は王に言いました。

 「たとい、あなた(王)の家の半分を私にくださっても、あなたといっしょにまいりません。また、このところではパンも食べず、水も飲みません。

 主の命令によって、『パンを食べてはならない。水を飲んでもならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」(列王記第一13:8,9)

 

 食事をともにすることは、和解の証です。しかし、神は、北イスラエル王国のヤロブアム王を罰することを決めておられました。神の人は、神を恐れない王や国と決して和解などしてはならないのです。神が彼らを赦しておられないからです。神の御心ではないからです。

 

 こうして、神の人はべテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰りました。

 べテルにひとりの年寄りの預言者が住んでいました。彼の息子たちが、べテルで神の人がしたことを残らず彼(父)に話すと、彼は、ろばに乗り、神の人が帰って行った道を聞いて、神の人のあとを追って行きました。

 その人が樫の木の下にすわっているのを見つけると、年寄りの預言者は神の人に言いました。

 「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ。』と言って命じました。」こうして、神の人をだましました。

 神の人は、未熟な人だったのでしょうか。王にも、年寄りの預言者にも、「私は主の命令によって、『そこではパンを食べてはならない。水も飲んではならない。もと来た道を通って帰ってはならない。』と命じられているからです。」と素直に言っているのです。

 神の御役目の時には、こういう言い訳がましい言い方はしない方が良いですね。神の敵である悪魔がわなにかけようと隙を狙うからです。

 

 大役を果たした後で、緊張が解かれてほっとしていたのでしょうか。同じ預言者だという年寄りの言葉をそのまま信じてしまいました。自分自身で神に伺うことをしなかったのです。

 

 年寄りの預言者について行って、神の人は彼の家で、パンを食べ水を飲みました。すると、年寄りの預言者に主のことばがあり、神の人に叫んで言いました。

 「主はこう仰せられる。『あなた(神の人)は主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、主が、あなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所(べテル)に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、はいらない。』」(列王記第一13:21,22)

 

 神の人は、北イスラエルのヤロブアム王の前で、王の怒りを引き起こすような預言をして神の命じられた大役を果たしたのにも関わらず、同じ預言者だということで年寄りの預言者に心を許してしまうという甘さがありました。

 

 神の命じられたとおり、神の人は神の命令を守らなかったゆえに、獅子に殺されました。神の人がろばに乗って出て行くと、獅子がその人を殺し、死体は道に投げ出され、そのそばにろばと獅子が立っていました。

 そのことを聞いた年寄りの預言者は、神の人の死体を持ち帰り、自分の墓に納め、そして、息子たちに言いました。

 「私が死んだら、あの神の人の骨のそばに私の骨を納めてくれ。あの人が主の命令によって、べテルにある祭壇と、サマリヤの町々にあるすべての高き所の宮とに向かって呼ばわったことばは、必ず成就するからだ。」(列王記第一13:31,32)

 

 神の人のことばどおり、ヨシヤ王の治世に、ヨシヤは先祖ダビデの神(イスラエルの神)の道に歩み、偶像やバアルの祭壇を取り壊し、祭司たちの骨を彼らの(忌むべき神)の祭壇の上で焼いて、地をきよめました。

 神の人の骨の隣に納められた年寄りの預言者の骨は、焼かれることがありませんでした。年寄りの預言者はそれを知って、あえて、神の人をだまし神の人の骨の隣に自分の骨も納められることを望んだのですね。

 神は、神を恐れる年寄りの預言者の願いを聞かれたのでしょう。

 

 獅子は、ユダの獅子と言われるイエス・キリストを現わしているのかも知れません。神は、神の子羊イエス・キリストによって裁かれるのです。すなわち、神の子羊イエスを信じる者に永遠のいのちを与え、信じない者を裁かれるのです。

 

 神の命令に聞き従わないことは、罰せられることでした。これが、イスラエルの神です。キリスト教では、イスラエルの神が隠されているので、神の厳しさを知ることができません。

 

 キリストの御霊を受けて、御霊に従うとき、人間の常識を超えた導きがあるかも知れません。自分で判断しないで、納得するまで祈って確認するならば、それが神からのものであると確信して従うことができるでしょう。

 人にどう評価されるかは大事なことではありません。真理の御霊は、父なる神の御心を行なうようにと導かれるのです。

 私たちの主イエス・キリストも、父の栄光のためにわざをされ、父に従い通されました。キリストが授けてくださる真理の御霊は、キリストの御霊です。キリストの御思いをそのまま伝えてくださる方(助け主)なのです。

 

 イエス・キリストは、愛する私たちに、父に従い父の栄光を現わすようにと願い、御霊を与えてくださるのです。