ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

忠実な御霊の子

 

 「御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。(ひとりの主によって、おのおのに御霊が分け与えられています。)

 (御霊の)働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。(働きの現われが違っていても、働いておられるのは、同じ御霊であり、同じ神です。)

 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われ(一つの御霊ですが、それぞれの人の働きの現われは異なります。)が与えられているのです。

 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同一の御霊によって、癒しの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、御心のままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」(コリント第一12:4-11)

 

 人には、それぞれ神が分け与えられた賜物があります。それは、生まれ持った能力に注がれるものではないのかと思います。

 神に出会うまでは気づかなかった、自分のうちに眠っていた才能かも知れません。あるいは、自分のうちでひそかに楽しんでいたことかも知れません。しかし、遠くに離れてあったものではないと思います。

 

 自分で決めないで、自分の目の前に置かれたことをただひたすらやり続けていた結果、徐々に導かれて行くのかも知れません。

 おおよそ、自分自身で選択するものは、神が与えておられるものとは異なり、見当はずれの場合が多いと思います。自分の願いと自分の能力は一致しないことが多いのです。自我の強い場合は、特にそうです。

 「これだ。」と思って、他人から奪ってやり始めたことが何も形にならないで空中分解したり、やり始めたものの、実は自分自身にしっくり来ないと気づいたり⋯。

 

 神からいただいた才能は、自分自身では価値がないと思っているようなことであるかも知れません。しかし、神からのものは、「こんなもの。」と思って、嫌々やり始めてみてみたら、案外と楽しかったりするものです。

 他人にどう見えるかは問題ではありません。神がくださるものは、その人自身の魂が嬉しい、楽しいと感じるものではないでしょうか。

 

 天の御国に迎えられるのは、神の御子イエス・キリストをかしらとするキリストのからだであり、御霊の教会です。

 御霊によって生まれ、新しい創造を受けた神の子どもたちです。神の子どもたちは、どの民族に属すのか、どの国の人か、男か女か、大人か子どもか、は一切関係ありません。また、以前どの宗教に属していたのかも関係ありません。

 

 御霊によって新しく生まれた者であるかどうか、が大事なのです。御霊によって生まれた者は、一つの御霊によってバプテスマを受け、同じ一つの御霊を飲んだ者です。キリストのからだは、御霊によって造られるからです。

 

 「(人の)からだが一つでも、それに多くの部分(器官)があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリスト(のからだ)もそれと同様です。

 なぜなら、(御霊によって新しく生まれた)私たちはみな、ユダヤ人もギリシや人(異邦人)も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたのです。

 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官からなっています。」(コリント第一12:12-14)

 

 目という器官一つをとっても、白目と黒目があるという単純なものではありません。

 奥には硝子体があり、それを網膜が包み、それを脈絡膜が包み、それを強膜が包み、視神経がそれらを働かせているようです。

 水晶体は毛様体から出ている毛様小帯が支え、瞳孔があり⋯と、なんか複雑です。

 瞳を守るまつ毛や瞼もありますし、角膜とか何やらいろんな部分があるようです。

 

 たとえば、分け与えられた賜物が目の働きの場合、目の働きと一言で言っても、水晶体の細胞なのか、硝子体の細胞なのか、瞳を守る瞼の細胞なのか、はたまた視神経なのか、多くの部分の働きがあります。

 

 しかし、すべて目の働きに属するのです。

 御霊の子どもの忠実な人は、自分に分け与えられた賜物に忠実な人々です。自分で、神にあれがしたいこれがしたい、こんな働きは嫌だ、そんな賜物は面白くない、と文句を言っている間は、自分自身の賜物を見つけることができません。

 

 ひとりひとりに分け与えられた賜物は、その人の性質や個性を知り尽くした神がお与えになったものです。その人が無理なく喜んでするもので、最も力を発揮でき、実を結ぶものを与えておられるのです。

 

 自分に与えられた賜物を使わないならば、御霊の実を結ぶことができません。その人が結ばなければならない御霊の実は、分け与えられた御霊の働きなのです。

 ほかの方向を見て、自分で賜物を選んでいるうちに時間ばかり過ぎてしまいます。

 「神様。あなたが私にくださった賜物によって働き、御霊の実を結ばせてください。」と、御霊にへりくだって素直な心にならなければ、宙を打つような拳闘で終わってしまいます。

 

 「拳闘」と言うのは、これは、戦いだからです。だれと戦うのでしょうか。私たちの魂を神から奪い、死と滅びに連れて行く悪魔との闘いです。

 神は、神の子羊イエス・キリストの血で私たちの魂を、悪魔から買い戻してくださいました。

 しかし、悪魔も黙ってはいません。再び、神から引き離して悪魔の奴隷にしようと隙を伺っているのです。

 

 その戦いの武器が、もうひとりの助け主「真理の御霊」の与えられることばであり、祈りであり、賛美なのです。

 私たちは、真理の御霊に与えられた賜物に従って働くならば、キリストのからだの働きをすることになります。

 

 また、目の働きの人が祈るならば、目の賜物の祈りをすることでしょう。。耳の働きの人が祈るならば、耳の賜物の祈りをすることでしょう。賜物に気づかなくても、祈りによって分け与えられた賜物の部分の働きをすることになります。御霊に導かれて祈るならば、そういうことになります。

 

 ひとりひとり、それぞれ与えられた賜物、働きは異なりますので、ほかの人を見て真似しても仕方ありません。自分に与えられていない賜物の働きに関わっても、人間の努力はあっても、御霊の力は働きません。肉の力でしたことは疲れますし喜びもありません。やり終わったあとの充足感も達成感もありません。

 

 御霊に与えられた賜物は、喜びが伴います。また、平安があり、神を体験するのです。そして、御霊の実が結ばれていくのです。

 

 神道の中にも、仏教の中にも、日本人の中に真理の御霊によってキリストのからだとなる人々がいると思います。

 その人々はキリストを知りません。しかし、神からの賜物を用いて知らず知らずのうちに神の分け与えられた能力に従って忠実に生きている人ではないのかと思います。

 

 異邦人の御救いの完成の時に天に上げられる人は、きよい心で神を求め、神から預かった能力を大切にし、神に分け与えられる賜物の働きをする人ではないのかと思います。

 あれもこれもしなくて良いのです。神が分け与えてくださった賜物(それは心に喜びを与え、楽しんで、また、使命感を持ってできるものなのかも知れません。)によって神に仕えるならば、それは神の国のために働くことであり、キリストのからだの生ける細胞となることです。

 

 自分の喜びを神にささげると、ますます神はその賜物に知識と知恵を増し加えてくださいます。そして、思うことでしょう。

 「これは、私がしていることではない。私のうちにおられる御霊が私に力を与え、働かせてくださっているのだ。」と。