ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

心の楽しみ

 

 「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(箴言17:22)

 「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。」(箴言15:13)

 「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」(箴言15:15)

 

 口語訳聖書では、このように訳されています。

 「心の楽しみは良い薬である。魂の憂いは骨を枯らす。(心の楽しみは生きる力である。心に楽しみのないのは、生きる力をも奪う。)」(箴言17:22)

 「心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。(心に楽しみがあれば晴れ晴れとし、心に思い煩いがあればどんよりと気力をなくす。)」(箴言15:13)

 「悩んでいる者の日々はことごとくつらく、心の楽しい人は常に宴会を持つ。(心に楽しみのないのは生きづらく、心の楽しい人は生きる気力に満ちている。)」(箴言15:15)

 

 あるとき、私は気づきました。

 日々わずかな物を惜しみながら、節約節約の毎日を過ごしていた私の頭の中は、来月のことの心配でパンクしそうでした。心は、いつもお金の心配をしていました。

 しかし、ふと周りに目をやると、同じような境遇なのに、まったくお金のことに気を留める風もなく、値段に構わず好きな物を買い、気楽そうに暮らしている人がいました。

 

 私は好きな物よりも安い物を選び随分と節約しているのに、一向に楽にならない。しかし、一方では、節約する風もなく、値段を気にすることなく自分を喜ばす物を選択している人が、ひょうひょうと生きているのです。

 私は立ち止まって考えました。自分の欲しい物を我慢して生きているよりも、自分の欲しい物を選んでひょうひょうと生きた方が幸せではないだろうか。

 

 ある時、一大決心をしました。我慢するのはやめよう。自分の生活範囲内ならば、心の喜ぶもの、楽しいものを選ぼうと。そして、実験しました。節約を優先しない生き方をしてみました。

 結果はどうでしょう。残高は節約していたときと、ほぼ同じです。好きな物を買うからマイナスか、と言ったら、そういう月もありますが、心は豊かになっているのです。そして、次第に明日を心配する心が薄らいでいきました。

 

 なんだ、節約して心が渇き切っていた過去は何だったんだろう。

 好きな物を買えると、心は穏やかになります。自分を窮屈にする縄目が解かれたようでした。もちろん、贅沢な物にもともと興味があるわけではないので、自分の生活のレベルに応じた解放です。自分の生活を食い繋いで行くことに必死だった自分とは、おさらばです。

 

 そのような楽しみのエッセンスの加えられた生活をするようになると、無駄な買い物がなくなって来たことに気づきました。

 以前は安いというだけで、気づくと同じものをいくつも買っていました。そして、使わない物も多くありました。節約しているつもりで、無駄な買い物をしていたのです。欲求不満の現われだったのかも知れません。

 

 しかし、自分の好きな物を買って、自分を喜ばせてあげていると、不思議に使わない物を買うことがなくなって来ました。

 自分の心を喜ばせてくれる物に囲まれるようになると、日々感謝の心で過ごすようになりました。周囲にあるすべての物が必要な物で、役に立つ物なのです。それに、不足感がなくなりました。すでにある。もう、これもあれもあるではないか。

 物質的な物への欲求はしずまり、関心は精神的な満たしへと移行しました。

 

 心の楽しみは、日常の生活習慣が大きく影響しているのだと思わされました。節約の生活は私の心を弱らせましたが、「好きな物を買って良いよ。」と自分自身を解放してあげると、心は喜び楽しみに満ち、「私、ありがとう。」と私自身にも感謝できるようになりました。

 

 子どもの頃、自分の欲しい物を制限される時に親に反発し、自分の欲しい物を買い与えてくれた時に親の前で体全体で喜びを現わした時のような状態でした。

 

 自分が自分の親になって自分を監視し、小さな幸せを奪っていたんだな、と思います。それゆえ、自分自身を楽しませないことで、本来の自分の意志は片隅に追いやられて、幸せを感じることができなかったんだ。神の愛を求めながら、自分自身の本心を捻じ曲げて自分自身に愛を与えていなかったんだ。

 

 目的をもって自分を追い込むのとは違います。その場合、目的を達成するための我慢であって、目的成就のために自分の本心も喜んで応援してくれるのでしょう。

 

 私の場合は、目的のないやせ我慢であって、愛を奪う行為でした。自分自身の楽しみを踏みにじって自分を愛さないこと、また、自分がこんなに我慢しているのにと家族や他人を恨むことで他人に愛を感じないこと、このような生き方をしていると、愛に反応する受信器が作動しなくなって神の愛がわからなくなります。

 

 自分の心を楽しませることはとても良いことです。自分の心が明るく健やかになるし、明るい心で周囲を見れば、否定的な考えが弱くなります。訴える思いが薄れ、忘れる心も働くようになります。

 心は解放されて生きるのが楽になります。

 

 金銭が心を楽しませてくれるように思いがちですが、そうではありません。金銭は、自分の欲しい物を得るための手段です。手段に人生を費やして、目的(自分が本当にしたいことをし、自分が素直に喜べる時間と空間、自分が最も幸せだと感じる明るい心の日々)に達する人は多くはないのです。

 

 「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。(多くの財産を持っている者は恐慌によって翻弄される。財産を失うことは彼らにとって死に等しい苦しみである。その心は嘆きでおおわれる。しかし、わずかな物しか持っていないが主への信仰のある人は失う物もなく、比較的世の恐慌の波は直撃せず、世の混乱の中でますます、思いは主とともにあって堅固な信仰へと成長する。そして、永遠の住まいに向かって歩み、終わりの日のために備えをする。)

 野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(金銭や物質的豊かさが人に平安を保証するのではなく、精神的豊かさが平安をもたらす。そして、愛し合う喜びが、愛の主〈永遠のいのちを得させる神、真理の御霊〉をお迎えする土台となる。)」(箴言15:16,17)

 

 「少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。

 野菜を食べて互いに愛するのは、肥えた牛を食べて互いに憎むのにまさる。」(口語訳聖書 箴言15:16,17)

 

 心の楽しみは、人生の良い薬です。

 自分を愛し、自分の心に心の楽しみを与え、明るい心をもって、健やかに成長してまいりましょう。