霊に敏感な牧師がおられました。牧師は、いつも祈っておられました。
いろんなことを、御霊の導きによって、霊で察知する牧師でした。
その牧師は、「わかってもわからなくても、主の御心に従っていますように。」とよく祈っておられました。
私は、(これだ。)と思い、私もそのように祈るようになりました。
御霊に導かれる、と一言で言っても、御霊の声が聞けますか。雲をつかむような事です。わかったような、わからないような。結局、御霊の導きはいったい何なのか、これなのか、あれなのか、はたまた別のことなのか、というところで立ち止まってしまうのです。
御霊が導いてくださる神の霊だということはわかりますが、その目に見えない御霊のサインをどうしたらキャッチできるのでしょうか。御霊の声って、どうやって聞いたらいいのでしょうか。
わからないから、この牧師の祈りは、大変な知恵のある祈りだと思いました。
御霊の声が聞けなくても、御霊の導きがわからなくても、どうか、道を外すことなく、神の大きな広い心によって憐れみ、正しい道に歩んでいることができますように。
今歩んでいる道が本当に正しいのかどうか、後になってみなければわかりません。知らないうちに、別のところに迷い込んでいるのかも知れません。
しかし、祈りは聞かれます。神は、つたない祈りをも聞き届けてくださいます。
「私には正しい道を判断する知恵がありません。持っている知識が役に立つのかどうかもわかりません。
ただ、主よ。あなたから離れたくありません。あなたの御心のうちにいたいのです。知恵をください、と祈って知恵をいただいても、私がその知恵を使いこなせるでしょうか。
私はどうしたらよいのかわかりません。私がわかろうとわかるまいと、どうか、あなたの憐れみをかけ、御心のうちを歩ませてください。
私がわかってもわからなくても、神の道を歩むことができますように。」
私はいつも、神にすがる思いで祈ります。
ある時、気づきました。歩んでいる最中は、遠回りしているな、とか本当にこの道で大丈夫なのか、と不安でいっぱいでしたが、平安の場所に置かれていたのです。
目の前のことをひとつひとつやりこなしていると、少しずつ風景が変わって行きました。私が場所を変える場合もありますし、同じ場所に居ながら環境のほうが変わって行く場合もありました。
そして、平安な場所に置かれた時に、通って来たそれらのひとつひとつの環境がここへ来るために必要な事柄であったことを知ったのです。
幾度、手を叩いて神をほめたたえたことでしょう。「主よ。すごい。主は天才!」
私が知らなくても、わたしを知っておられる主が、のみで削るように、私の不必要なものを削り、必要なものを得させてくださっていました。
ずっと若かった頃は、これが神の御心だと思うと、すぐにそれの実現のために知恵を振り絞って、あれこれ考えたものです。
しかし、だいだい失敗に終わりました。今わかることは、神の御心を成し遂げることが重要なことではなくて、自分の力も知恵も使わず、ただ神の導きにゆだねることです。
神の知恵がすべてです。神はいつも正しいのです。
「主よ。私の知恵はあなたの働きを妨げるだけでした。私はへりくだるどころか、私の中にある経験や知識やわずかな知恵を総動員して事に当たり、肉を強くし肉に頼っていました。主のためにしている自分に満足していました。
御霊の導きの前に、私自身がしゃしゃり出て、神の本当の御力も素晴らしさも見ていなかったのです。
主よ。あなたが私の人生の主権者となってください。行く場所も歩む地図も、あなたの御手の中にあります。主が与えられるものが最善であることを認めます。主の御霊が船頭です。どうか、御霊にゆだねることができますように。」
「わかってもわからなくでも、主の御心のうちを歩んでいますように。」という祈りは、私の守りでした。
私が自覚してあたふたするよりも、わからないままで神が導かれたほうが、とてもうまく行きました。
そのうち、自分自身で計画を立てることがなくなって行きました。
神の導きは完全で、スムーズです。無駄が省かれ、とても効果的です。疲労感はありません。
私の外に探していましたが、実は、神は私の中に、導くものを持っておられたのです。私の中にあるものによって働くので、楽しいですし嬉しい気持ちになります。また、達成感があります。
私たちがわからなくても、神は私たちひとりひとりにとても良い御計画をお持ちです。そして、その御計画を、神の御心のままに受けるとき、その御計画は、受け取った私たち自身が大いに喜び楽しむものなのです。
私たちが喜びに満ち感謝に満ちている姿を御覧になって、神もまた喜び楽しみ、安息されるのです。
「主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。(必要なものを備えてくださいます。)
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても(自分ではどうすることもできない苦難に遭遇することがあっても)、私はわざわいを恐れません。
あなた(神である主)がわたしとともにおられますから。
あなたのむち(道を外した時には、わざわいを与えて不従順の歩みをふさぎ、我に返してくださいます。)とあなたの杖(道を外しそうになった時には、懲らしめて道に戻してくださいます。)、それが私の慰めです。(神は、私が正しい道〈永遠のいのちの道〉に歩むように、常にともにおられ、守っておられます。)
私の敵の前で、あなたは私のために食事を整え、私の頭に油を注いでくださいます。
私の杯は、あふれています。(神は信仰の勝利者となることを御覧になり祝福しておられます。)
まことに、私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23篇)