ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イスラエルの礎石 世界の礎石

 

 ダビデの賛歌

 「義の門(神の御前に出るいのちに至る道の門)よ。私のために開け。

 私はそこからはいり、主に感謝しよう。

 これこそ主の門(主の設けられた羊〈神の子どもたち〉のはいる門)。正しい者たち(神に義とされた者たち)はこれよりはいる。

 

 私はあなた(主)に感謝します。あなたが(救いを求める)私に答えられ、わたしの救いとなられたからです。

 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。(神の国を建てるために選ばれた者たちが、礎石にふさわしくないとして捨てた石。実は、その石こそが神がお与えになられた天の御国の礎石であった。)

 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。(神に選ばれた者たちが尊ばない、見栄えのしないものが、実は神の秘密を握る隠された真理の奥義である。主は、神の民にさえ、奥義を隠される。主の奥義は、信仰によって悟るようにされているからだ。)

 これは、主が設けられた日(救いの日)である。この日を楽しみ喜ぼう。」(詩篇118:19-24)

 

 神はイスラエルを選び、神の祭司の国民とされました。

 イスラエルは、神のことばの上に立てられた民族であり、祭司と預言者と王とが、民を神に仕える国民として導いていました。

 

 ユダ族から出たダビデ王は、神から、「王座はあなた(ダビデ)から移ることはなく、とこしえに堅く立つ。」と約束されていました。

 

 その約束どおり、神はダビデの子孫に、神のひとり子を遣わされました。ダビデの町ベツレヘムで生まれた、ナザレ人イエスです。

 イエスは、世の罪を取り除く神の子羊として遣わされました。

 イスラエルの罪を身代わって、生贄の子羊の血を流されたイエスは、実に、神がダビデ王に約束しておられた、とこしえの「イスラエルの王」だったのです。

 

 「王」(キリスト)は、民のために血を流し、父なる神に、彼らの赦しを執り成されました。

 「父よ。彼らを赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

 

 神の子羊は、神の祭司の国民イスラエルの手で、木にかけられ、呪われた者とされました。神の子羊イエスが罪を負い、神に呪われた者となってくださったことで、イスラエルの罪は贖われ、神に義とされたのです。

 

 しかし、イスラエルは信じませんでした。

 木にかけたナザレのイエスが、神が遣わされた罪の贖いの子羊であり、神の国の礎石であることを。

 神は、神の子羊イエスを礎石とし、イエス・キリストのことばを神の家を建て上げる基礎とされるのです。

 

 なぜならば、ナザレのイエスは、神のひとり子であって、永遠のいのち【真理の御霊】を得させるキリスト(救世主)だからです。

 

 イエスのことばは、神のことばであり、預言です。イエスは、キリストの油を注がれた「預言者」なのです。

 死から甦り、復活した神の子羊イエス・キリストは、天に上り、まことの聖所である神の御前で神と人との仲介をする「とこしえの大祭司」です。

 また、ダビデの王座に着いてとこしえに治められる、「とこしえのイスラエル(永遠のいのちを得る御霊の子どもたち)」の「イスラエルの王」です。

 

 神は、ユダ族のダビデ王の子孫にキリストを生み、とこしえの国を建国されるのです。

 イスラエルは、神が約束されたメシアを待ち望んでいました。

 しかし、イスラエルの思いは暗く、神が遣わされたキリスト(神の御子イエス・キリスト)を悟ることができませんでした。彼らは、律法の奴隷であって、信仰によるしもべではなかったからです。

 

 民の長老、祭司長、律法学者たちが、民を扇動し、彼らに従う民は、ともに、神が遣わされた神の子羊イエス・キリストを退けました。

 ユダヤ人たちは顔をそむけるほど、ナザレのイエスをさげすみ、のけ者にし、尊びませんでした。

 

 イスラエルは、イスラエルを愛し、イスラエルのために戦ってくださる「とこしえのイスラエルの王」(イエス・キリスト)を捨てました。

 実は、イスラエルが捨てた石こそが、ユダヤ人たちが待ち望むイスラエルの再興とエデンの園の回復を実現される、神の家イスラエルの礎石だったのです。

 

 イスラエルに与えられた神の家の礎石は、イスラエルを出て、世界に神の家を建てて行きました。

 イエス・キリストの御名は、「救い主」として、世界に広がり、世界中にイエス・キリストを「主」とする羊たちが生まれました。

 キリストは、羊飼いであり、御霊によって羊たちを生み、御霊によって生まれた羊たちを義の門(いのちの道)へと導かれます。

 

 キリストは、羊の牧者であって、羊はその声を聞き分けます。羊は、彼の声(御霊)を知っているので、キリストの御霊について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たち(キリストの御霊ではない霊)の声を知らないからです。(ヨハネ10:3-5)

 

 神は、終わりの時代に、再びユダ族から「イスラエルのメシア」を立てて、世界の救いを全うされるでしょう。救いはユダヤ人から出るのです。

 

 イエス・キリストが神の国の礎石であり、新しいイスラエル(とこしえに生きる神の国)の初穂であるように、実は、神が選ばれた神の祭司の国民イスラエルは、人類の初穂の民族なのです。

 

 イスラエルは、神御自身が、神の国を創造する御計画を実現するために選ばれ、神と契約を結ぶ唯一の国民なのです。

 

 「地上のすべての民族は、あなた(アブラハムとアブラハムの子孫、すなわち、イスラエル)によって祝福される。」(創世記12:3)

 これは、神の誓いです。そして、世界に隠された奥義です。

 

 イスラエルの指導者たちは、隠された奥義「ナザレのイエスが神の約束しておられたキリストである」を悟ることができませんでした。

 そして、イスラエルを神の国として建て上げるように選ばれていたイスラエルの指導者たちは、神が天からお与えになったイスラエルの礎石を捨てました。礎石を失った彼らは、神の国を建て上げることができませんでした。

 

 現在、神の民だと自負する人々のうち、ユダヤ人が世界を救う民であり、イスラエルが神の民であることを信じる者はどれくらいいるのでしょうか。

 

 聖書を信じる人々、聖書を知る人々の間でも、知られてはいません。

 

 ダビデでは言います。

 「すべての国々が私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。

 彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。

 しかし、彼らはいばらの火のように(あっけなく)消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。

 おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。

 主は、私の力であり、ほめ歌である。

 主は、わたしの救いとなられた。」(詩篇118:10-14)

 「私」と書かれた部分を「イスラエル」に置き換えてみましょう。

 

 神の国を建てることを憎む悪魔は、悪しき霊を世界中に散らして闇の子らに力を与えます。神に敵対する者は、反キリストであり、反ユダヤであり、反イスラエルです。

 

 敵は、キリスト教会にも入り込んでいます。指導者が一番狙われるでしょう。

 イスラエルが、神の家の礎石であるイエス・キリストを捨てた時の勝利に浸りつつ、悪魔は働きます。

 

 指導者の守りのため、御霊が教会の牧者となられるように、執り成しましょう。

  

 世界は、神の国の礎石(イスラエル)を捨てるのでしょうか。

 神の奥義(ユダヤ人、イスラエルが神の国の民であることは、今も変わらないこと)は、御霊によらなければ理解できません。人の目には隠された真理です。

 

 信仰の目を持って世界を見ることができますように。

 世界の礎石(神の契約の民イスラエルの契約)の上に、信仰の基礎が築き直されますように。

 

 世の終わりに、世界を救う者として神に油注がれる者は、ユダヤ人の中から起こるのです。

 ユダヤ人によって世界は救われ、こうして、すべてのユダヤ人は救われるのです。

 

 かつてイスラエルの指導者たちが、イスラエルの礎石であるナザレのイエスに高ぶり、救いを失ったように、キリスト者たちが、新しい世界(イエス・キリストが王となられる千年王国)の礎石であるイスラエルに高ぶり、救いを失うことがありませんように。