ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

祝福を得るのも受け取れないのも、捉え方次第なんだなぁ


  祈っている時に見た映像です。

  保育園児の私が保育園の遊び場にひとりぼっちでいます。誰もいません。私の前を白い衣を着たイエス様が横切って行かれます。

  園児の私は喜んでイエス様の後についていきます。すると、私の好きな遊具の所まで来て、さあ乗りなさい、とでもいうように手を差し伸べられました。

  私は遊んでもらえると分かって急いで遊具に飛び乗りました。イエス様はゆっくりと遊具を動かし次第に早く、そして丁度いい速さで回してくれます。私は声をたてて笑い、この時を楽しみました。

  私はイエス様が大好きで、体じゅうに喜びが溢れています。イエス様も小さな私が体いっぱいに楽しんでいる事を、心から楽しんでおられるようです。

  幼い時の孤独をイエス様が埋めてくださいました。いつもそばにいて愛して下さるイエス様がこんなに小さな頃から一緒におられたんだ、私はひとりぼっちではない、と慰めを得ました。

  不安定だった私の人生の基礎に補修工事が入りました。イエス様はイエスの愛という土台の上に、確かな人生を立て上げるための新しい基礎を築いて下さるのです。

  こんな風に私の深い所の悲しみや孤独に光を注ぎ、癒しと解放を与えていかれました。

  何年か後に、ある姉妹と出会いました。その人はどこかさみし気な感じの人でした。とても悲しそうにそっと打ち明けられました。他の人には話した事が無い内容でした。

  ご自分で見た幻のお話でした。こういう話は誰にでも言えるものではありません。話す人を間違えると、白い目で見られてしまうという辛い体験が待っています。

  その人の前をイエス様が横切って行かれたというのです。イエス様だと喜んだのに、イエス様は私に話しかけてもくれず、目もくれずに真っすぐ前を見て通り過ぎて行ってしまわれた、との事です。それで姉妹は落胆してしまったのでした。

  イエス様は私に興味を持ってくれないと思ったようです。

  その時私は数年前に見た、園児の私を遊具で遊んでくれたイエス様の映像を思い出しました。同じように前を横切られたのに、ふたりの印象は異なり、そして全く正反対の結果を得ているのです。
 
  園児の私はイエス様がわたしについて来なさい、といってると思ってイエス様のあとについて行きました。そして、私はイエス様の愛を知りました。
  一方、その姉妹は、イエス様に無視されたと思い悩んでいました。そして今も悲しんでいて信仰は滑りやすい場所に立っているかのようです。

  彼女にかつての私自身が体験した幻の話をしました。「私も横切られたイエス様の後についていったら良かったんですね。」と言われました。

  でもどうして私はイエス様に無視されたと捉えてしまったんでしょうね、とも言っておられました。

  今になって分かるのは、幻の中の私は園児であった事、彼女は大人であった事の違いです。

  聖書の中に、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入る事は出来ません。」「悔い改めて子どものようにならない限り、子どものように自分を低くする者とならない限り、決して天の御国には入れません。」といわれたイエスのことばがあります。

  子どものような心で神のことば、神からのメッセージを受けるなら、神を捉える事が出来るようになっているのでしょう。

 
  この世で生きていくには分別のある大人である事が望ましいでしょう。でも、神の国では、素直で子どものように高ぶらない心の貧しい者が受け入れられるようです。

  だから、神は(この世においては)蛇のように賢く、(神には)鳩のように素直になりなさい、といわれているんですね。