本当の自分なんて考えた事も無かった。家族といる時の私。友達といる時の私。職場の私。学生の私。教会の私。みんな私だった。
嬉しいって感じるのも私。嫌だなって思うのも私。でも、自分の感情を優先出来ないのが社会。環境に応じて変化し成長していく。これが大人になるって事だと思っていた。
ふと立ち止まると、空っぽな私が取り残されたような不安を抱えてうつ向いている。それを、見て見ぬふりして置き去りにする。
感情を押しやる事を覚えて、人間関係は楽になる。私なんて構っていられない。環境に摩擦が無い事で胸をなでおろす。
人に合わせて衣をまとう。不器用な私は衣の上に衣をまとい、膨れ上がり身動きが取れなくなる。
生身のからだは窒息気味。気力も衰えた。すべてがどうでもよくなる。一人でいる時も心はうつろ。
でも、自分を押し殺す。こうやって生きてきたんだ、私は。だから、余計な事を考えないで走り続けられた。だから、これからもこうして生きていく。
私が走ってきた道、曲がり角に差し掛かって速度を落として曲がってみたら、行き止まりになった。道があるはずだったのに、道は閉ざされた。
私は走る道を失い立ち止まった。道が無い。私は一人取り残された。過去を振り返る。
久しぶりに自分と向き合う。自分なのに、他人のよう。しかも、私に無関心な他人と向き合っているようだ。
泣きすがれない。さめた目で見ている自分に、私も構える。誰も私を助けてくれない。孤立無援な私。
今までの生活は、掴む事の出来ない影となって消えた幻。何だったんだろう。悔いではなく、虚無感がなだれ込む。
日々、無。実は、これは大いなる休息の時であった事をずっと後に知る。この期間に神は内に働き、癒しと新たな力を得る準備期間として下さった。
自分と向き合っても何も得られない。神に目を向ける。神を求め、日々祈る。神は乾いた私の心に鋤を入れた。水ではなく鋤だった。
荒れた地を耕す期間。実りは要求されない。種を育てる水は必要ない。種を蒔く状態ではない。心がすさむ私に必要なのは、その荒れ果てた地を収穫する良い地にする事。まず、畑を耕す事。
神は時間をかけて、教え養って下さる。ことばを与え、ある時は幻を見せて、また夢で取り扱って下さった。
実りの無い私を、実を結ばせる者のようにねんごろに愛して下さる。
ある時、赤ちゃんがひとりぼっちで泣いている映像が見えた。あ~んあ~んと大声をあげて泣いている。赤ちゃんの頃の自分の姿だとわかった。私は泣き止むようにあやしてみた。もっともっと大きな泣き声となる。困ってしまった私。自分自身だとわかっているのに、大人の私は手を焼いている。困り切った私は泣き叫んでいる赤ちゃんから距離を置いた。
白い衣のイエス様が赤ちゃんに近づいた。イエス様の顔を見るなり、声をたてて笑う赤ちゃんの私。キャッキャッと嬉しそうに全身でイエス様を喜んでいる。イエス様は赤ちゃんをあやしたわけではない。それなのに、笑っている。
気が重くて距離を置いている大人の私に、イエス様は赤ちゃんを見るように促された。気乗りしないまま、赤ちゃんに近づいた私。
赤ちゃんは私を一瞥すると、笑顔は消え疑わしそうな目で見た。赤ちゃんとは思えない、不信感を抱くような大人びた目で私を見透かしている。「なんて可愛げのない子‼」怒りにも似た感情が沸き上がる。それと同時に、私を好きになって!と赤ちゃんにすがる自分もいた。
法廷に立つ罪人の気分の私。こんな小さな赤ちゃんに訴えられている。怒りは次第に消え、申し訳ないと、私の心は変化していた。
赤子の自分に頭を下げる。赤ちゃんは大人の私とは異なる、もう一人の人格者。大人の噓偽りで塗り固まった私が、赤ちゃんの姿で現れた本当の自分に許しを請う。
私は、今まで自分の本心を偽り私自身を追いやってきた事、自分自身を置き去りにして人から認められる事のみを追いかけて、自分を苦しめて来た事に思いが至った。これからは大切にするね、と許しを請いながら、赤ちゃんを見つめた。
心の底から謝罪出来た時、赤ちゃんは、赤ちゃんらしくにこっと笑い、大人の私を慈しむように見つめて安心したように目をつむった。安らいだ赤ちゃんはそのまま大人の私の胸の中へと消えて行った。
本当の自分が大人の私の中に居場所を得た。これからは、自分自身に認めてもらえるように生きて行こうと、心新たにした体験でした。
何か大事なものを見失った事にも気付かなかった私、命の方向性がなく漠然と過ごしていた私に、いのちの息が吹き込まれて生きる者となった、というような出来事でした。