ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

天国へ向かう人生

 

 イエス・キリストの福音を聞いても、御霊によらなければイエスが神の御子だと信じる事は出来ません。何度聞いても、理解出来ません。でも、御霊が働かれる時が来ると、すんなりと受け入れます。理屈ではなく、霊が受け取るからです。

 

 私も最初、全く理解出来ませんでした。イエスが神の御子だと話す教会の人々は、嬉しそうに輝いています。その輝きを目にして、私の心は意固地になります。私もそっちに行ってみたいという思いよりも、自分が惨めに感じたものでした。

 

 教会で聖書の学びをする前、そうです、三浦綾子さんの本に出合う前に、名古屋の街を歩いている時、一つの小さな教会の前を通り過ぎた時の記憶がはっきりと残っています。

 

 その教会の前には、「わたしが道であり、真理であり、いのちです」と大きく書かれていました。そのイエスの言葉を見た私の心は、即座に嘲る思いで苦々しくなりました。(なんて高慢な人だろう。人が道になるの?自分が真理って何様?いのち?何言っちゃてるのよ。)あの時の不快感と、強い反感は今も思い出す事が出来ます。

 

 高慢なのは私の方なのに、イエスを偉そうに高ぶった、とんでもないイカサマ野郎だと思いました。

 

 真理を求めながら、イエスが真理だとは気づく事はありません。絶対怪しい、こんなものを信じてはならないと、攻撃的な構えをしました。

 

 三浦綾子さんの本の中に流れる「普遍的な愛」のようなものに惹かれ、それを慕い求めました。その愛のようなものは綾子さんから出ていると思っていました。北海道に行って、綾子さんから話を聞きたいと思いました。その頃読んだ本の最後に、「あなたもキリスト教会に言ってみませんか」と書いてあったので、教会で聞けるのかと思い、電話帳で調べて、聖書研究会の時間にお邪魔しました。

 

 聖書の話はチンプンカンプンでした。何回か通う中で、私が求めていたのは真理ではなく、愛だったのだと気づき始めました。イエスを真理ではなく、愛として求めました。教会の人々のようなゆったりとした安らぎを見出す事は出来ませんでした。イエスを神の御子と信じる事も出来ません。

 

 私にとって、教会の人々は、別世界で生きている人々です。違う空気を吸っているかのようです。世とは違います。聖い空気の中に、不純物の私が入り込んでいる印象です。何の関わりも無い存在のようでした。

 

 宣教師に祈っていただきました。イエスが神の御子であることを信じる信仰と、イエスへの愛が与えられるように、という祈りです。自分の力ではいくら努力しても信じる事が出来ませんでした。この信仰は別物でした。

 

 お寺や神社へ行って祈るのとは、全く別の次元のものでした。この世の延長のものではありません。全く理解不能なものです。イエスは神の御子です、という知識だけでは入って行けません。本当に信じる心がないと、門は閉じられたままです。お寺や神社にはない、目に見えない門があるのです。

 

 私はイエス・キリストを信じるために格闘しました。キリストを信じる事は容易です。イエスという人が、人々の罪の身代わりとなって十字架にかかり、人の罪を贖ってくださったというのは、他の宗教の神々を信じるのと同じように信じる事が出来ました。だから、とても愛の深い人である事も理解できました。

 

 でも、イエスが神の御子であるという事が、どうしても信じられません。これは、人の力では出来ないようです。地に住む人には隠されています。地に答えを探しても見つかりません。天に目を上げると、天からの力で目からうろこが取れ、イエスが神の御子である事実をがっつんと受け止めたのです。

 

 自分から出た思いではなく、その思いを天から着せられたようでした。イエスが神の御子であるという信仰が置かれると、神から離れて生きて来た自分に気づき、何故か涙が溢れ出し、神に立ち返る決意を持ちました。

 

 教会で水のバプテスマを受け、心が一新されました。でも、天国へ行く確信はありません。十字架につけられるイエスを激しく罵る自分の姿をみせられ、自分の罪がイエスを十字架につけた事がはっきりとわかった時、聖霊を受けました。

 

 聖霊を受けると、神から離れていたという、人類共通の原罪ではなく、自分自身の犯して来た様々な罪を思い起こさせられました。その一つ一つを悔い改め、謝るべき人には謝罪して回りました。その時から、私達の神から、私の神となられたのです。

 

 本当に不思議な事です。私の心の中に律法が書かれて、私の霊がそれに従っているかのようです。御霊が私の人生の同伴者となられました。天国に帰る道を知る御霊が導いてくださるのです。

 

 イエスが言われた「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」という言葉が私のうちで働いているのです。

 

 私個人としての数々の罪の悔い改めとともに、イエスの霊である御霊が私の内に住まわれ、イエスは私の神、私の主という、信仰が与えられました。そして、救いの喜びが置かれました。

 

 御霊の導きに従うと、狭き門の中に導き、御国の平安で満たしてくださいます。いつその門をくぐったのかはわかりません。御霊の導きに食らいついていると、いつの頃からか、霊的な平安を得ていたのです。

 

 地上にあっても、天の御国の喜びと平安を味わいます。肉体を脱いでからではありません。肉体の中にいる時から、永遠のいのちを味わっているのです。

 

 天国に向かう人は、ゴールがはっきりとしています。ゴールへの道はイエスの言葉であり、その道の案内人である御霊とともに歩みます。その人のうちには、イエスへの愛と御霊の喜びがあります。いのちがあるからです。

 

 神様、いのちをありがとう。

 神の子羊イエスを地上に送ってくださって、ありがとう。