約二千年前、天から来られた神の子が十字架で処刑されました。十字架上で彼は天の父に祈りました。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」
彼は、天の父から遣わされた神の子でした。人類を死の呪いから救い出すために来られらたのです。
罪の無い完全に聖い者しか、天では生きられません。彼は、人を天で生きる完全な者とするために、彼らの罪を背負い彼らの身代わりに罰を受けるために、この世に生まれました。
十字架で処刑されるために、生まれた人でした。神が用意された贖いの子羊となるために、彼はご自分を聖く保ち罪を犯しませんでした。
彼は創世以前からともにいた、父である天の神について証をし、神の国について、永遠のいのちについて人々に語り聞かせたのです。
人々は彼を憎みました。そんな話は聞きたくないと思いました。「十字架だ。十字架につけろ‼」と叫んで彼を処刑しました。
彼は十字架上で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」といって、息を引き取りました。この時、天は開かれました。
彼は墓に収められました。三日目に天の父は彼を死から復活させたので、彼は墓から甦りました。
甦ったイエスは弟子達に現れ、復活したからだを見せて、ご自分が神から遣わされたキリストである事を証し、信じる者に聖霊という神の霊を与えると約束して、弟子に見送られながら、天に昇って行かれました。
弟子達は集まって、聖霊が下るのを待ち望み祈りました。そして、聖霊が下られ、信じる一人一人の内に御霊が宿ったのでした。
御霊はキリストを証し、真理に導き入れ、やがて起ころうとしている事を示します。
実は、この時神の国は地上の人々に訪れたのです。キリストの十字架の贖いの血によって、既に被造物が犯した罪は赦され贖われたのです。
人はその事実を知り、救い主キリストを信じるならば、御霊が与えられて神の国を味わう者となるのです。神の国に入る者の体験とも言えます。御霊による神の国を体験する者達が、天の神の国に入るのです。
「天国」っていうのは神の国であり、キリストを信じる者に与えられる御霊の内にあり、また、御霊を宿す人々が集められる場所でもあるのです。
毎週子ども達を集めて聖書のお話をしていた婦人の体験談です。お話する内容はあらかじめ用意しています。その日初めて訪れた男の子がいました。
用意したお話に沿って話を進めていると、何故か天国の話になってしまいました。今日用意している内容に戻そうとするのですが、また天国のお話になってしまいます。
自分でも不思議に思いながらも、神が天国の話をするように導いておられるんだと考えて、イエス様のお話と天国のお話をしました。
お話が終わり帰る時、その男の子は嬉しそうに「また来るね。」と言って喜んで帰りました。翌週、その男の子は来ませんでした。
その後、その男の子が遊んでいる時に池にはまって亡くなっていた事を知りました。天国のお話を聞いた日から何日も経たないで起きた事故だったようです。
天国の話に導かれたのはあの男の子のためだったんだ。もっとちゃんと導いてあげればよかった。イエス様を信じて受け入れる祈りをしてあげればよかった。
悔やんでも悔やみきれません。この姉妹はこの男の子の事が気掛かりでした。一回しかお話を聞いていないあの子は、ちゃんとイエス様のところに帰ったのかなぁ。
台所に立って夕食の準備をしている時でした。
「おばちゃん、おばちゃん。」と明るい男の子の声が聞こえました。あの男の子だってすぐに分かりました。「あなた、いたの。」
「僕、天国にいるよ。イエス様といるよ。」元気な声でした。
「そう、天国へ行ったの。イエス様といるの。」姉妹の男の子に対する心配はなくなり、安心しました。
子どもには純粋に信じる事が出来る素直さがあります。何回も聞かなくても真理を見抜き、受け取る感性があるようです。
イエスを受け入れる祈りをしていなくても、その人の内にある信仰を見ておられる神ご自身を知ることが出来た証でした。
天の神は地を見下ろし、ご自分のひとり子であるイエスを愛する愛やご自分に対する信仰や天国の希望を、人々の中に探しておられるのでしょう。
天の神に望みを持つ人、万物は神に造られたと信じる人、イエスを愛する人の中に神の国はあるのです。
何故なら、創造主を信じる信仰もイエスへの愛も永遠の希望も人から出たものではなく、神の御霊によらなければそのような告白は出来ません。
信仰は神の恵みであり、心の目を見えない神に向け、心の悩みを見えない神に打ち明けて神を求める人に与えられるものです。その人に神は現れ、意識を造り替えて神の国を体験させて下さいます。
やがて、神と心が結ばれた人々は神の子となって天の国をイエスとともに相続するのです。