私の苦しみのために祈って下さったスウェーデンの伝道者はしきりに、「主を見上げなさい。あなたの目を主に向けなさい。主を仰ぎなさい」と言っていました。
こんなに苦しい事が起こるのを許された神に不信感を抱く私は、心の中で「主を仰ぐ事は出来ません」と繰り返し拒否りました。
同室の先輩が、「あなたのために神が伝道者を送って下さったね。毎年秋に来られるのに、こんなに早く来られたのは、あなたのためだったんだね」と言われて、神に対する不信感が和らぎました。
神が私の苦しみを知っておられたと分かった事は確かですが、それだからと言って状況が好転したわけではありません。家族の事、教会の事、学校内の事は相変わらず私を悩ませていました。
ただ神がわかっておられる事なので、私の落ち度という捉え方をして自分を責める苦しみからは解放されました。
あの祈りから一年程経った頃でした。また新たな問題がのしかかってきました。苦しめば苦しむほど強くされました。以前よりも重い荷物を担ぐ事が出来るようになりました。
神への不信感は消えていましたが、怒りを覚えていました。ふてくされた自分がいました。
そんな時、教会の礼拝の最後に牧師が「それでは各々神に祈りの時を持ちましょう」って言われました。今までそんな時間が設けられた事はありませんでした。今日はどうしたんだろう、と思いながら皆と同じように目をつむって祈りの体勢をとりました。
「祈れません」って祈りました。「祈りたくありません」と神に反抗しました。許せない人々の顔が浮かび、苦々しい思いになりました。悔い改めるように御霊に促されます。
「どうして私が謝らなければならないんですか?」「神がこの状況を許されているんだから、神が私に謝って下さい。そうしたら、赦してあげます」とへんてこな抗議をしていた時に、思わず「私を赦して下さい」と私の心はもらしたのです。
なんてこった。私が謝っているではないか。これは私の意思に反している。私が謝ってどうする、と私は必死に自分を制しました。
自分の意思に反して、「あの人を赦します。この人を赦します」と、赦せなかった一人一人の名前を挙げて赦しの宣言をしていくのです。
これは私では無い、とはっきり分かりました。赦しの宣言を続けるうちに、重く塞いでいた心が軽くなっていくのが分かりました。
御霊の祈りに心合わせて祈っていると、私自身も積極的にその祈りに参加し始めました。すべての人の名前を出尽くした後、(そうだ、祝福しなくてはいけない)と思い、赦した一人一人の名前を挙げて、「この人を祝福します。あの人を祝福します」と全員を祝福して、祈り終えました。
その時でした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」それは響きでした。シンセサイザーの音のような響きでした。人の声のような声ではありません。響きなのに、ちゃんと言葉として聞こえました。
聖書の中に、群衆が神の声を聴いた時雷がなっていると思った、とあるように確かに雷のように聞こえる響きでした。
そして、私の右にも左にも、前にも後ろにも、上にも下にも、神の愛が満ちました。神の愛の中にすっぽりと包まれ、息苦しいくらいです。
祈りの時が終わり、周囲を見回しましたが、他の人は聞こえていなかった様子です。
私は神の力強い愛に圧倒されました。後にあの言葉は父なる天の神が御子イエスにかけられた言葉であった事を知り、心に秘めました。
イエスにかけられた言葉を受けたなんて言ったら、信じてもらえないでしょう。信じてもらえないどころか、中傷されてしまう事でしょう。私の個人的体験に留めました。
この体験は、後に待ち受けていた数々の苦難を耐え忍ぶ力となり、また、信仰が失われないように支え守ってくれるものとなりました。
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