ローマ人の総督ピラトは、十字架のイエスの頭の上に、『これはユダヤ人の王ナザレ人イエスである』と書いた罪状書きを掲げました。
イエスに罪を見つけられないピラトに、祭司長達に説きつけられた民衆が、「イエスを十字架につけろ」と騒ぎ立てました。
自分では手の下しようがなく、暴動になりそうなのを見たピラトは、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言いました。「この人の血について、私には責任がない。自分達で始末するがよい。」
すると、民衆は皆、答えて口々に言いました。「その人の血は、私達や子供達の上にかかってもいい。」
イエスは、ほかのふたりの犯罪人とともに、死刑にされるために、引かれて行き、兵士達によって十字架につけられました。『ユダヤ人の王』との罪状のイエスは、真ん中の十字架でした。
十字架上でイエスはいわれました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
民衆はそばに立って眺めています。道を行く人々は、イエスをののしります。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」指導者達も嘲笑って言います。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」「たった今、十字架から降りてもらおうか。我々はそれを見たら信じるから。」
兵士達もイエスを嘲り、そばに寄って来て言います。「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」十字架にかけられていた犯罪人までもが、イエスに悪口を言います。「あなたはキリストではないか。自分と私達を救え。」
イエスが十字架につけられたのは、実に、彼らの罪のためでした。彼らは、右も左もわからない、愚かな罪人です。十字架にかけられていないだけで、人に罪状を申し渡されていないだけで、神の御前では明らかな罪人です。自分達が死刑囚に数えられる者である事を知らない、また、認めようともしない、救いようのない囚人です。
イエスは、父にいわれました。「父よ。彼らをお赦しください。」神が遣わされた神の御子を十字架につけて、神の御救いを侮った、愚かな人々を赦してください、とお願いされました。
神の民として取り分けておられた御自分の民イスラエル。彼らの愚かさへの怒りは頂点に達していました。
カナンの地を巡って探って来た斥候の報告を受けて、カナンの地に入るのを恐れた民が、エジプトから連れ出しカナンの地に導いて来たモーセにつぶやき、「さあ、私達は、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう」と言った時と同じでした。全会衆は、モーセとアロンを石で打ち殺そうと言い出しました。
その時、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れ、主はモーセにいわれました。
「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにも関わらず、いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」
モーセは主に申し上げました。「エジプトは、あなたの御力によって導き上らせたイスラエル人のことをカナンの地の住民に告げ知らせることでしょう。そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたの噂を聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。
『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』
どうか今、わが主の大きな力を現わしてください。あなたは次のように約束されました。『主は怒るのに遅く、恵み豊かである。咎と背きは赦すが、罰するべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。
あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
主は、「あなたのことば通りに赦そう」といわれ、モーセは、民を神の怒りによる滅びから救いました。しかし、神の義は、逆らった者達すべてを荒野で倒し、カナンの地に入らせなかったのです。民全体が彼らの罪によって、滅びることから免れました。
「父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。彼らをお赦しください」と父の怒りを知るイエスは、父をなだめました。
エルサレムにあるどこだったのか、イエスが十字架につけられる前夜に留置されたらしいとされる洞窟に案内されました。
黄土色の軽石のような岩がくり抜かれたような地下の空間です。神がイスラエルに遣わされたキリストは、赤子の時家畜の飼い葉おけで迎えられ、最後には何もない殺風景な岩肌の空間の洞窟に捨てられました。
狭い空間のその場所で、私は、心の中で必死に祈りました。最後に過ごされた夜、イエスはどのような思いで過ごされたのでしょう。「教えて下さい。あなたは何を思っておられたのですか。あなたが地上最後の夜に何を考えておられたのですか。教えてください。」ツアーですから、そこに留まっていられる時間が限られています。その祈りに集中しました。
少しずつ半歩ずつ、惜しむようにして進んでいると、心に飛び込んで来ました。「父よ。彼らを赦したまえ。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」
この祈りは、十字架上で祈られただけではなく、ずっとイエスが神の御前で執り成し続けておられたんだ、と思いました。
ゲッセマネで、この杯を取りのけてください、と祈ったイエスは、父の御心通りになりますように、とすべてを父にゆだねられました。
洞窟に留置されたイエスは、イスラエルの民を赦し、民の赦しを父に求め続けておられたのだ、と理解しました。
イエスを十字架につけることを願った民衆は「その人の血は、私達や子ども達の上にかかってもいい」と、叫びました。彼らの言葉通りに、イスラエルは多くの苦難を味わい、多くの血が流されました。
しかし、イエスは、「父よ。彼らをお赦しください」と祈り続けたのです。義である神は彼らに罰則を与えられました。しかし、それは、イスラエル民族を赦し、救うことを前提としての罰則でした。
イエスは、十字架につけられる前から、イスラエルの愚かさを憐れみ、彼らの罪の身代わりとなって死ぬことを選び、イスラエルの救いのために心を砕いておられたのです。「父よ。彼らをお赦しください。」
イエスの祈りは、父に受け入れられました。