ことばは、言霊といわれるように力を帯びています。人を慰める言葉もあり、励ます言葉もあります。人を和ませる言葉もあれば、人を傷つける言葉もあります。
人に傷つけられた言葉は、深く突き刺さり、傷ついた人を袋小路に追い込みます。傷つけた人は、言葉の持つ力に無頓着です。
傷つく人を捕えたその言葉は、時間を超越して今尚、出口の無い闇に追いやったままで、解放をしてくれません。
私を捕えて苦しめた言葉がありました。普段は控えめで家族思いで親切な、教会の姉妹の言葉でした。
悪気が無い事は分かっていました。だからこそ、受けたダメージは大きかったです。言葉だけ聞いたら、そんなに傷つくような言葉かな、と誰もが感じると思います。
私の心から血が流れました。かさぶたになる事はなく、流れ続けました。貧血状態の私に、自分を守るために母教会を出る決意をさせた言葉でした。
環境を変えても、傷は癒えません。その言葉は、心に痛みを与えるにとどまらず、日常生活を脅かすほどの力を持つようになっていました。
しばらくは、神に打ち明ける事が出来ないでいました。自分でも思い当たる節がある言葉だったからです。
自分が悪かったんだと反省するにつれ、傷口は破れ心が裂けるのです。とうとう、神に祈りました。
「あの姉妹の言葉は私を打ちのめしました。私は立ち直れません。助けてください。」
すると、映像が見えました。その姉妹と私が向き合って話しています。あの言葉を受けた時の状況でした。
見ると、姉妹の上には弓矢を持つ翼のある黒く醜いものがいます。悪霊だと分かりました。悪霊は私の心臓めがけて矢を打つ構えをしました。
矢を放ちました。瞬時に私は目を閉じました。痛みはありません。至近距離から放たれた矢に何も感じないのです。
目を開けてみました。私の目に矢が見えました。私の心臓の部分に目を移すと、なんと白い衣の手が私の心臓の前にあり、その白い衣の腕に矢は刺さっていたのです。
その腕をたどって、私の隣に立っている人を見ました。イエス様でした。イエス様の体のあちらこちらに矢が刺さっています。
「この言葉はあなたに言われた言葉ではありません。わたしに向かって放たれた言葉なのです。」
霊の世界の事実を知らされました。この事が分かると心の傷は癒されました。流れ出ていた血が止まってかさぶたになるのではなくて、傷痕が消えました。
神はその言葉の出どころを知らせ、イエス様の守りを知らせて下さいました。それで、その言葉は私を苦しめるものでは無くなりました。
その言葉は、私に悪魔の存在を知らせ、霊の世界の戦い、イエス様と悪魔の戦いの事を知るに至らせてくれました。
目に見えている事柄の背後に働いている者がいる事に気づき、その存在に、心を留める事が出来ました。
これは私の戦いではなく、神の戦いなんだ、と思いました。これを知る事が出来て良かったと思います。
自分の力で戦って命を落とす事は避けられます。神の戦いならば、神の武具を身につけて御霊にともに戦っていただくのです。
「信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いの兜をかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」と聖書にあります。
神とともに歩むものは、霊の世界の生き方を学んでいくのです。
神はご自分の子を知り、守って下さいます。