ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠のいのちを得させるキリストは後にも先にもイエスだけ

 

 宗教の霊は、ユダヤ教にもキリスト教にも入り込んでいます。宗教の霊は地に属しており、戒めを守ることを良い事とし、天に帰る道をふさぎます。規則を守ることが良い事なのです。群れの中でのあり方が問われます。

 そして、人間のうちにある良心に働きかけます。人間がより良い者となることが神に受け入れられることだと思わせます。正しいこと、善い事を教えます。神を恐れる者たちは、熱心にそれを聞き、努力してそれを行なうことでしょう。

 

 まことの神から出ていない宗教は、神を知りません。それゆえ、ユダヤ教やキリスト教の場合とは異なります。神(人を創造された神)がおられないのです。目の前の創始者や、創始者の教えを受け継ぐ教師らに耳を傾けます。

 彼らの教えの中に「神」があるとしても、それは聖書の神ではありません。人間がつくり上げた霊的存在です。人間が創造できるわけはないので、人間が感じた霊を神に祭り上げたということです。

 

 創造主から見れば、偽りの神です。神になりすます堕天使でしょう。

 肉体を持つ物質的存在の人間は、霊的存在を自分たちよりも高次元の生きものだと思うのです。それは、幽霊のような低次元の霊ではありません、人間の知ることのできない、宇宙の秘密を示し、人間の想像の及ばない霊的事柄を知らせてくれます。

 人間の知識をはるかに超えた、新しい知識に人間は引き寄せられます。そして、その霊を神だと思うのです。

 

 その偽りの神は、人間の知り得ないことを教え、彼らの心に崇拝の念を抱かせて支配します。人間は支配されているという意識を持たないまま、その霊にコントロールされます。挙句の果てには、その霊を取り次ぐ人間もともに、その霊に服従させられます。それが宗教の霊です。信者は、宗教の霊に支配された奴隷と化します。しかし、信者らは、自分が奴隷であることに気づきません。服従することは善い事なのです。善い信者の証です。信者にとって教祖は絶対的存在であり、教祖の教えは絶対の真理なのです。

 

 世の人々の目に信者たちの行ないは異様なものに映りますが、信者らは気にしません。自分(信者)たちは真理を知り救われる者、真理を知らない呪われた世の人々は滅びる者、このように教えられています。だから、気にしないのです。

 これが、宗教の霊に支配された宗教の究極の姿です。彼らは信仰によってではなく、洗脳によって結びつけられています。

 

 信者だけではありません。教祖も教師も群れ全体がその霊に操られるのです。その霊の深みに入っていない者は、何か違和感を感じます。すると、教師たちがその違和感を否定してその者を責めます。

 責められて、自分が間違っていると思い込まされる者は、霊の深みに入って行きます。しかし、ますます不審がる者は、洗脳が解かれて行きます。

 

 霊は見えないものです。見えないものに操られます。信者たちは教祖に操られているのかというと、教祖自身の魂が悪しき霊に丸呑みにされており、悪しき霊がその群れの王座にいるのです。

 

 悪しき霊に魂を売り渡した者たちは悪しき霊の棲みつく獣です。もはや、彼らは人間ではありません。人間の姿をした獣です。獣は、とこしえの裁きが定められた者です。

 新約聖書のヨハネの黙示録に出て来る獣と同じです。終わりの時代に立つ、悪魔の権威を与えられた反キリストや偽預言者だけが獣なのではありません。

 

 反キリストの霊は、イエスの時代から働いており、真理を踏みにじる悪しき獣は、世界中のどこにでもいます。自分と同じように悪しき霊に自分をささげる滅びの子を生んでいます。

 

 世の初めからいのちの書に名の記されていない者は、彼(偽キリストあるいは偽預言者)に従います。彼らは、悪しき霊によって一つのものになるからです。悪しき霊は、洗脳によって信者の知性や感情や精神や意志までもコントロールして、悪しき霊に服従する奴隷をつくります。

 

 魂が正常な者の霊は、この状況の中で、コントロールされていることを自分の魂に警告します。そのような信者の内では、本来の生身の魂(人間の心を持つ魂)と悪しき霊に服従する魂がせめぎ合います。その人は、世の初めからいのちの書に名の記されていない者たちの仲間ではないからです。

 

 宗教の霊は隷属させます。単なる宗教は、人間の教えに留まりますが、悪しき霊が支配する宗教は、生けるまことの神(創造主)に敵対する悪魔の子らを生みます。そして、彼らは人間を導き多くの人を滅びの子とするのです。

 

 悪しき霊は、人間を服従させます。人間に自由意思はありません。服従しない者には恐ろしい制裁を加えます。こうして、逆らうことをあきらめさせ服従する奴隷にしていくのです。悪しき霊に服従して、人間は何か良いものを得るのでしょうか。悪魔と同じ、永遠に燃え盛る火の池に連れて行かれるだけです。

 

 神の霊は、聞き従うことを要求されます。しかし、人には自由意思があります。ユダヤ民族のように、神と契約を結ぶ民族には、神は、厳しく罰せられます。それは、彼ら(ユダヤ人)に幸せを得させて安息に入らせるためです。ユダヤ民族との契約が御救いだからです。

 

 神の霊は、聞き従わない者を無理強いして引っ張って行くものではありません。人には自由意思があるのです。神に聞き従うしもべには、天の御国の安息が約束されています。しかし、聞き従わない者は、自ら天の御国に入るのを拒むことになるのです。

 

 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、試しなさい。なぜなら、偽預言者がたくさん世に出て来たからです。

 人となって来たイエス・キリスト(イエスは肉体を持って来られた神の贖いの子羊です。)を告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

 イエスを(イエスは神の御子、キリストである、と)告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(ヨハネ第一4:13)

 

 イエスの御名を用いる宗教もあるでしょう。イエス・キリストの名を語るから、私たちの味方かと言えば、そうでない場合もあります。

 その場合、イエスは、聖人のひとりであったり、イエス以外の名前が崇められていたりします。

 私たちが信じるイエスは、聖人のひとりではありません。神のひとり子です。人間はだれも、神格を持っていません。女から生まれた人の子で、天の神と同じ神格をお持ちの人の子は、神の子羊イエス・キリストただおひとりです。地上にあって人間はだれも神の御子イエスと同列の者(神格を持つ者)はいないのです。

 

 ペテロたちイエスの弟子は、聖書に書かれているキリストの預言が、ナザレのイエスに於いてことごとく成就したことの証人です。

 

 三年半のイエスの宣教期間にイエスとともに生活し、イエスに付き従ったペテロは、イエスの十字架の姿を見、墓に納められたのを見、死から甦られた復活のキリストの姿を見、天に上って行かれる有様を見、その後、エルサレムで約束の聖霊(キリストの生かす御霊)を受けました。

 

 弟子のペテロは言います。

 「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

 ユダヤ人から出たイエス・キリストに於いて、聖書の預言は成就しました。

 「私がキリストである。」とキリストを名乗る者が現われても、それは、聖書の預言者たちが預言したキリストではありません。偽キリストです。

 偽キリストに従うならば、偽キリストの報いを受けます。

 

 十字架に掛かられた神の子羊イエス・キリストに聞き従うならば、神の子どもとされる特権とキリストの御霊と永遠のいのちを得させられます。