かつて聞いたお話です。
一人の大工見習いの兄弟がいました。毎日木材を運んだり建物の骨組みの上に立って働いていました。
ある日、彼の牧師はその兄弟に対して胸騒ぎがしました。何故かは分かりませんが、兄弟のために祈らなければならないと思ったのです。
何かは分からないまま、兄弟が守られるように祈り続けました。やがて、平安な気持ちになって、祈り終えたそうです。
ちょうどその頃、その兄弟は柱と柱の間に横向きに渡された人の足幅ほどの木材の上を、いつもの通り、慣れた足取りで渡っていたのです。
不意に体のバランスを崩して、高いところから落ちてしまいました。
それを見た仲間の大工はすぐさま、もうだめだ、と思ったそうです。バランスを崩して落ちると大概の場合、大けがをします。打ち所が悪いと死んでしまいます。
皆の目が凝視する中、なんと彼は空中を一回転して、足で地面に着地したのでした。誰もが驚きました。
その兄弟自身も何が起ったのか、呆然としていました。ただ足が着地した衝撃でびんびん痺れ痛かったのです。
皆が安堵する中、足の痛みが治まるまで休憩してから、その日最後まで働いたのでした。
家に帰ると、牧師から連絡がありました。牧師が自分のために祈っていてくださっていた事を知りました。
牧師が平安な気持ちになり、祈り終えたのが、着地した後の事だったのを牧師は知りました。
神は兄弟が遭遇する危険を牧師に知らせ、牧師に執り成しの祈りを導いておられた事、牧師の祈りに守られて、空中で一回転し無事けがも無く地面に着地出来たという事をその兄弟は知りました。
牧師とその兄弟はともに主に感謝し、神をほめたたえました。
私はこの証を聞いた時、本当に神は今実在し、生きて働いておられる方なのだ、と仰天したものです。
宣教師二人と一緒に働いていた時の事です。働き始めて一、二か月の頃のお話です。
宣教師のうちの五十代の宣教師は、四十肩で腕が上がらないとかで、長い間片腕だけの生活を余儀なくされていました。
毎日、「肩が痛い、痛い」と言っておられました。
そんなある日、アパートに帰って夕飯も食べ終え、主とお話している時でした。テレビも電話も無かった私は、ただ主とお話するだけでした。祈りというのではなく、私の思いを打ち明けたり、だらだらと心の中でお話するのです。
ふっと、五十代の宣教師の事が浮かびました。そういえば、肩が痛い、腕が上がらないって言ってたな、と思い出しました。
祈りの体勢になりました。「どうか宣教師の腕が上がるようにして下さい。肩の痛みを無くしてあげて下さい。」ほんの一言でしたが、集中して祈りました。
翌日、宣教師に会うと「ふっしぎ、不思議。昨日の夜十時頃、突然肩の痛みが無くなりました。」「急に腕が上がるようになりました」と言って、上にあげる事が出来なかった腕をぐるぐる回して見せて下さるのでした。
昨晩宣教師の肩のために祈った事を、その時まですっかり忘れていました。夜十時頃は、ちょうど祈っていた時間でした。
私は呆然としていました。「良かったですね」とやっと言えました。呆然と突っ立っている私の前で、宣教師は子供のようにはしゃいでいました。
神学校を卒業したばかりのひよっこの私が、そのために祈ってましたなんて、宣教師に言えるはずはありません。
癒しの祈りは患部に手を置いて祈るものだと思っていましたが、神は執り成す者の祈りの言葉とともに働くお方なのだと、神の手のわざを知りました。
神には距離は関係ないです。地球の裏側にいる人のために祈った祈りが、同時刻に地球の裏側にいる人の身に叶えられたという話も聞きました。
祈りは神と通じ、神が働かれ、神のわざを見る事が出来る、生きて働く神の力を体験できる、神が人に与えられた神の術なんだと思いました。
神は、祈る人を起こして祈らせ、祈りによって守られた人とともに神を体験させて、神を愛する者とするため、また神のうちにあって互いに支えあうようにしておられるのだな。
祈りは神の御霊にあって人と人をつなげ、信仰を成長させるため、また、祈りをもってご自身を知らせ、神を体験させておられるんだなと思いました。
自分の願いから出たのでは無い祈りの思いが起こった時は、神の聖霊が与えておられるのかもしれません。
打ち消さないで祈ってみたら、神の栄光を目撃する事になるのかも知れません。