ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

召命

 

  私が神学校に行きたいと伝えると、牧師は受洗して半年にも満たないあなたが神学校?と怪訝そうに、まずは神から召命の言葉を受け取ってください、と言われました。そして、牧師が推薦出来る神学校は、ご自分が卒業された聖書学校しかないことも言われました。

 

  必死で神に祈りました。ある時、一つの聖句が目に飛び込んで来ました。その御言葉に捕らえられたという印象でした。右でもなく、左でもなく、ただ真っすぐその二節分の御言葉が私の心に押し入って来たという感じです。

 

  あとから思えば、クリスチャンになり立ての人には結びつかない内容の聖句です。でも、私は喜び勇んで、その聖句を牧師のところに持って行きました。教会学校で子どもを教えるための聖書知識を求めていただけの私には重すぎる聖句です。ただ、神学校に入学したい思いの私は、聖句の意味までは考えていませんでした。

 

  牧師は、「聖書の六十六巻の中から、これが私の召命の御言葉だと言えば、誰だってそうなる。私は信じない」ときつく言われ、召されていない人が献身した場合の悲惨な報いをこんこんと諭されました。

 

  しかし、家から出て住む所も無くなり、また、聖書学校に入るためのお金も貯まり、状況が寄宿生活の聖書学校に行くしかない状況となり、やっと推薦状を出してくださいました。

 

  神の導きで、牧師も望まず、私も考えていなかった三年コース卒業に至りました。本当は神に召されていなかったらどうしよう、いつも私の精神は不安定でした。しかし、卒業式の日、個人的に祈ってくださった先生が「あなたをこれからいばらの道に連れて行く」と祈られました。私も薄々感じていたことだったので、「神のことばだと思います」と伝えました。

 

  当時の理事長夫人で、教会の働き人であり、聖書学校の働きに携わっておられないので、卒業式に来られるはずではない道子先生でした。霊的に深く知恵深い先生です。

 

  道子先生は卒業生の誰に言われているかまではわからなかったようですが、とりあえず、神からあずかった言葉を私に祈ってくださったのでした。そして、「あなたに一つの聖句が与えられましたよ」と二節分の聖句をくださいました。

 

  「先生、それは私の召命の聖句です」と言うと、「それでは、この聖句はあなたにとって確かなものですね」と言われたのです。

 

  卒業式にて、初めて神からの召命を確信したのです。卒業後、苦しみと嘆きの中で、いばらの道という言葉が支えとなりました。私は神が導いておられるいばらの道に居るのだ、神の裁きではない、正しい道に居るのだ、と信仰を乱すことから守られました。

 

  そこで出会った宣教師が、生涯の守りとなる聖句をくださいました。ハンセン先生自身が歩みのその苦しみの中で主に求めると、「それは頭の上に注がれた尊い油のようだ」という詩編の言葉をいただいた。苦しみがあると、今神が私に尊い油を注いでくださっているのだと思い、私はこの聖句に支えられて来た。私の生涯を支え守ってくれる聖句です、と言われました。

 

  詩編141:5

  正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。

  それは頭に注がれる油です。

  私の頭がそれを拒まないようにしてください。

   

 

  ハンセン先生を支え慰め守って来た聖句が、私にも受け継がれました。聖書学校時代は、「天の神御自身が、私達を成功させてくださる。だから、そのしもべである私達は、再建に取り掛かっているのだ」の聖句によって、自分自身を鼓舞して来ました。苦難が頭に注がれる油だと知ると、喜んで神に従う、新しい献身の心へと一歩引き上げてくださいました。

 

  仕事で東京に出張となりました。東京です。わくわくしました。東京駅のホームに立ち(やったぁ。東京だ)と心軽やかに歩きはじめると、「東京。ああ東京」と聖霊の嘆きの声がしました。これって、どこかで聞いたような・・・なんだったっけ、と思い出そうと頭の中が駆け巡りました。

 

  それは、「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたイエスのことばでした。エッ、聖霊は嘆いておられるの。何故?動揺しました。東京の華やかさに心浮き立っていた私は、聖霊が見ておられるものと違うものを見ているようです。

  心の中で、聖霊の思いで東京を知ることが出来ますように、と祈りました。白い高層ビルが立ち並ぶ都会の東京が、死んで白くなったサンゴ礁のように見えました。それまで彩鮮やかだった東京が、乾いた不毛の地のように見えました。

 

  神は嘆いておられる。東京の行く先知れず彷徨う多くの魂を悲しみの思いで見ておられたのです。私の中の華やかなものに心奪われる肉の思いは退けられて、神が見ておられるように魂に思いを向けさせられると、恐怖で心が凍りました。

 

  早く出て行きたい。一刻も早く東京を出たい、と心は怯えました。そこに潜む悪霊どもの気配をはっきりと感じたからです。

 

  出張を終え、アパートに帰宅するとただただ祈りました。恐ろしくて恐ろしくて神に身を寄せました。すると、神は私に、東京へ行くことを示されたのです。とんでもない。私には太刀打ちが出来ません。怖くて怖くて仕方がありません。

 

  しかし、今ではない、と言われました。これから、あなたをいろいろな教会に連れて行く。日本の教会の現状を見なさい。しっかりと見なさい、と言われました。

 

  宣教師は、私が三浦綾子さんの本によって教会に導かれたことや、聖書学校卒業後、文書伝道をしている宣教師の働きに加わったこともあって、「あなたは、文書伝道に召されています」と言っておられました。

 

  私は反発しました。教会で働きたいと思っていました。そして、ある教会の退職する伝道師の後釜として、教会の働きに導かれました。

 

  神に祈りました。「その教会での働きはどのくらいの期間ですか。」すると、主は、二年かそれよりも短い、と答えられました。そのことば通りになりました。

 

  私は、自分が教会の奉仕者として召されていないことを実感しました。宣教師のもとでは時間がたっぷりとあり、いつも本を読み、祈っていました。多くの夢、幻、示しを受けていました。

 

  しかし、教会の奉仕では雑務に追われ、人との交わりが中心で、神との時間は限られました。人の思いに酔ってしまいます。私の霊は飢え渇きました。幻も示しもありません。宣教師のもとにいた時に多くの示しを受けていたことが嘘のようです。

 

  一人の講師が外国からやって来ました。五人の賢い乙女と五人の愚かな乙女の話でした。携挙は半分が天に挙げられて、半分が地上に残されるという内容でした。私は、教会全体が携挙するものと思っていたので、驚きました。

 

  その時から、携挙にあずかる信仰とは何か、が私の信仰の課題となりました。