人の人生の様々な場面で、キリストに出会うように、と神がご配慮されています。
自分の身に起こる苦しみから救い出して下さい、と叫ぶのかも知れません。
絶望の中で、キリストが与える希望の光を求めるのかも知れません。
孤独の中で、キリストの愛にすがるのかも知れません。
心の貧しく高ぶらない者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇いている者、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者にも神の手は伸べられています。
神を知らずに、神を神としていなかった事、神に無関心で神から離れていた事を悔い改めます。
キリストの十字架の贖いの血で、罪赦されて、自分を造って下さった真の父なる神のもとに帰ることの出来る恵みを知り、神に自分の罪を告白します。
キリストが魂の救い主だとわかり、自分の人生にキリストを迎え入れます。
キリストと共に生きて行こう、と心に誓い、水のバプテスマを受ける事が、キリストにつくバプテスマを受ける事です。
水のバプテスマは、十字架で肉の行いである罪に死んで、死の呪いから復活されたキリストの体験を自分の身に着る事であり、キリストにつく者となる表明です。
水のバプテスマは、塵の性質、肉に死んで、御霊によって神と共に生きる新しい人とされるための、信仰の告白です。
水のバプテスマは単なる儀式ではなくて、神も臨席されるものです。一人の罪人が悔い改める事は、神の御使いたちに喜びが沸き起こるのです。
バプテスマは、キリストとの誓いです。
キリストにつくバプテスマを受けた者の意識は、この世から次第に神の意識へと変えられていきます。
それまで楽しいと思っていた事が楽しいと思わなくなったり、面白いと思っていた事への興味が薄れて行きます。
価値観が、悪魔が与えるこの世のものから、キリストが与える永遠のもの、神の価値観に変えられていきます。
キリストに接がれた人に、御霊が働き、内側から新しく造り変えていかれるのです。
罪深かった人でも、神に仕える新しい人とされるのです。
長い間教会に通っていても、水のバプテスマを受けていない人は、聖書のことばを理解するのが困難で、ぼんやりしているようです。
クリスチャン達の喜びの中にいて、喜びをはたで見ているだけです。
水のバプテスマは、キリストと共に歩む決断のようなものです。御霊の働きによって、霊の目と耳が開かれ、聖書のことばがスッと入って来る経験をしていきます。
そして、その人のうちに、喜びが湧き起こります。クリスチャン達の中にある喜びが、自分自身のものとなり、共に喜ぶ者となります。
水のバプテスマは、霊的なことなのです。
キリストにつく者は、キリストのからだである、キリストの教会の中で守りを受けて、育てられます。
教会は、神の子が育てられる神の家でもあり、悪魔から魂を救い出すための神の拠点でもあり、キリストの敵である悪魔の惑わしや攻撃から守る陣営でもあるのです。
聖書のみことばを聞き、祈りをならい、神を賛美する事を学んでいくのです。人の証を聞き、この世の人間関係とは違う、キリストを中心に置いた主にある兄弟姉妹の関わりを経験し、互いに祈り、信仰に成長していきます。
初めはキリストの御腕の中にいるだけですが、一つ一つを習い、少しずつ居場所みたいな場所ができるのかも知れません。
キリストを見失わないように、何をするにしてもしないにしても、キリストのために、という心が大切です。
イエスは、自分で良いと思う事をしたのではなく、いつも父の望まれる事だけをしました。それが、父に喜ばれる事であると知っておられました。
キリストのために良いと思われる事を熱心に行うのではなく、まずキリストが何を望まれるのか、キリストご自身に焦点を合わせてみましょう。
キリストを仰ぐ者となりましょう。
「わたしのくびきは、負いやすく、わたしの荷は軽い」とイエスは、いっておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。あたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます」とも、イエスは語りかけて下さるのです。
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