ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神を聖なるものとする


  ダビデはユダのバアラから神の箱を運び上ろうとして、自分につくすべての民と共に出掛けました。彼らは、神の箱を新しい車に載せて、アビナダブの家から運び出しました。アビナダブの子、ウザとアフヨが新しい車を御していました。アフヨは箱の前を歩いていました。

  ダビデと民は、歌を歌い、立琴、十弦の琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らして、神の前で力の限り喜び踊りました。

  ところが、キドンの打ち場まで来た時、牛が箱をひっくり返しそうになったので、ウザは手を伸ばして箱を押さえました。

  すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、不敬の罪のためにウザを打たれたので、ウザは神の箱の傍らのその場で死にました。

  かつて、主はモーセとアロンに、レビ族の奉仕についていわれました。「レビ人のうち、ケハテ族の会見の天幕の奉仕は、最も聖なるものに関わる事である。宿営が進む時は、祭司アロンとその子らが聖なる物と聖所のすべての器具を覆い終わって、その後にケハテ族が入って来て、これを運ばなければならない。彼らが聖なるものに触れて死なないためである。」

  聖なるものに触れる事が神に許されているのは、祭司職を担うアロンとアロンの子らであって、それ以外の者が触れると死ぬといわれたのです。レビ人はレビ族の中にあって、各々の系図によって、奉仕の割り当てが神に定められており、神が決められた奉仕に仕える事が要求されました。

  ウザは、祭司職に属するアロンの系図の者ではないのに、分を超えて、聖なる神の箱に触れて、神に打たれて死にました。

  人情として、ひっくり返りそうに見える、目の前の箱を見て、咄嗟にウザの手が伸びたのです。しかし、何ものに寄らずして、ご自身で存在される、全知全能の神は、聖い神であり、聖とされていない者が触れてはならない方です。

  聖くない者が、聖い方の領域に入ると、神に打たれて直ちに死んでしまいます。分をわきまえない不敬の罪です。

  それで、神は、モーセとアロンに、命じておられたのです。聖なるものに触れて死なないためである、と。


  アダムに神はいわれました。「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

  アダムは、善悪の木の実を取って食べて、死にました。

  人にどんな理由があっても、神は変えられません。神は、義なるお方でもあるのです。神が定めた法に違反する者には、罰則が伴います。それが、「死」でした。


  モーセは、「岩に命じれば、岩は水を出す」といわれた神のことばにへりくだらずに、民に向かって怒りました。「この岩から、私達があなたがたのために水を出さなければならないのか。」

  水を出す神の前にモーセ自身が立ち、神のご主権を民に現しませんでした。民に神を畏れさせるのではなく、モーセが立ちはだかって自分を恐れさせました。モーセの心は分を超え、神の栄光を民に現わす場面なのに、聖なる神の領域を土足で汚したのです。

  神が願いを叶えて下さる方なのに、指導者のモーセ自らが神に代わって願いを叶える者のようになっていました。

  聖なる神は、モーセに不敬の罪あり、とされました。それで、モーセからカナンの地に入る恵みを除かれました。

  エジプトの地から、多くの神のしるしと奇跡を現わして民を導き、荒野でイスラエルに神の律法や契約の箱を与え、イスラエルを神の民とする任務を忠実に果たして来たモーセでした。荒野を導き、民を率いて、神が先祖に与えた約束の地、カナンの地に入って、その地を相続するはずでした。


  この聖なる神が、人類の罪を赦し、永遠に生かすため、また、天上の神の国で神の子として安息させるために、神の栄光を映し出す神の御子を土で造った肉体を持つ人の子とされました。神の子羊イエスは、ユダヤ人の中に遣わされました。

  聖なる神の御姿である御子が、栄光の神の在り方を捨てる事が出来ないとは考えないで、朽ちて行く人間と同じようになって、この世に来られました。死のない聖なる方、永遠に生きる神の子が、汚れに満ちた罪深い人間の間に来て、住まわれたのです。

  イエスは、思いが暗くなって目が塞がれた人間に、父なる神を知らせ、神の国と永遠のいのちを知らせました。

  イエスは、罪を犯す事なく、人の子としての聖さを保ったまま、生贄の神の子羊として、十字架で流した血で、人類の罪を贖われました。

  神の子イエスを信じる者は、死に至るまで従順に父に従い通したイエスの信仰を着て、キリストの御霊を宿す者とされ、御霊によって新しく生まれる神の子とされるのです。

  聖なる神が、罪人を神の子羊イエスの贖いの血によってきよめ、神の御前で永遠に生きる、聖い神の子として下さり、御霊がその証印となられます。

  神を聖として畏れることの出来ない罪人を、神ご自身が用意されたキリストの血潮によって罪を赦し、聖い者として下さるのです。

  キリストの贖いの血が注がれ、御霊が住まわれる人を、神は、「罪は無い。聖い」と宣言されるのです。

  聖い神の御前に立っても、死なない者として下さるのです。