ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

青銅のへび


  モーセが斥候を遣わし、イスラエルがカナンの地を偵察して帰った後、カナンの地の住民達が背が高くて強いという報告を聞いた民は恐れをなして泣き叫びました。

  カナンの地を与えると約束された、神のことばを疑う不信仰な彼らは、神の怒りを買い、荒野に返され、民を惑わし神に従わせなかった者達は、神に打たれて疫病で死にました。

  その後の民は、目の前にカナンの地を見ながら入るのを拒んだので、カナンの地に入るのが閉ざされた事を知ると、荒野での生活がまだ続く事に不満を覚えました。彼らは、エドムの領土ホル山に行きました。

  民の心は希望を失い、肉もニンニクも食べられたエジプトでの生活を捨てた事を惜しみ悔やむ者達はモーセを恨み、神への信仰はありませんでした。

  その頃、民の支持を失ったモーセは、自分の力を見せつけるために、岩を二度打って水を出すという、不敬の罪を犯しました。モーセの心は民の反発の力に押されて、また、夢見たカナンの地を目前にして、イスラエルの不信仰の罪で入れなかったことに、しなえていたのでしょう。

  カナン人アラデの王は、イスラエルがアタリムの道を進んでいると聞いて、イスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえて行きました。イスラエルの願いを聞き入れた神が、カナン人を渡されたので、彼らはカナン人と彼らの町々を聖絶しました。

  この後、イスラエルはホル山からエドムの地を迂回して、もといた荒野へと旅立ちました。

  カナンの地に入る希望を失った民はモーセと神に逆らって言いました。「何故、あなたがたは私達をエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私達はこの惨めな食物に飽き飽きした。」

  神が民の中に強烈な毒蛇を送られたので、蛇は民に噛みつき、イスラエルの多くの人々が死にました。

  民はモーセのところに来て言いました。「私達は主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私達から取り去って下さるよう、主に祈って下さい。」モーセは民のために祈りました。

  すると、主はモーセにいわれました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべて噛まれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」

  モーセは一つの青銅のへびを作り、それを旗ざおの上に付けました。もし人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きました。

  それを仰ぎ見れば生きる、という神のことばを信じ、神のことば通りに仰ぎ見た者は毒蛇に噛まれても生きたのです。

  
  エデンの園で、神はアダムに、「善悪の木の実を食べたら必ず死ぬ」といわれました。その通りに、善悪の木の実を食べたアダムは、肉の目が開かれて肉の思いで生きる者となり、人の霊は死にました。

  それで、人は神のように永遠に生きる者では無くなりました。


  死をもたらす毒蛇に噛まれた人々を生かすために、神はモーセに命じて青銅のへびを旗ざおに掛け、人々に見えるように立てました。神のわざを信じて、青銅のへびを仰ぎ見る者は死ぬことなく、生きたのです。

  死をもたらした善悪の木の実を食べた人は、死の呪いを継承しました。この善悪は、死をもたらす悪魔の基準でした。エバをそそのかした蛇のことばは、モーセの時代に民を噛んだ、毒蛇と同じでした。噛まれた者は必ず死ぬのです。

  神は、モーセに青銅のへびを造らせ旗ざおに付けて、毒蛇に嚙まれた人々を生かしたように、人類を生かすためにご自身で贖いの子羊を造られました。まず、神の民イスラエルを造られました。彼らに、悪魔が与えるこの世の基準の善悪ではなくて、神の基準の善悪を知らせる律法を与えて、神を知る民とされました。

  しかし、この律法を完全に守ることは出来ません。どんなに立派な人でも父母を敬わないならば、その人は違反者となります。一度でも他人を偽証する発言をするならば、違反者です。律法を完全に守ることの出来ない人は、神に義とはされません。

  律法の違反者には、罰則が用意されています。律法は神に立てられたイスラエルが他民族と区別される特権でもあり、律法を持つ民の苦悩でもあります。

  神は、神の善悪の基準(律法)を守る民の中に、御自身のひとり子を遣わされました。イスラエルは、全世界の民族の中で、被造物の初穂として取り分けられている、神御自身の民です。

  律法では救われません。何故なら、神の義は、神に対する全き信仰なのです。善悪は神が決めるものです。善である方は、神おひとりです。神を善とする事は、神を信じる事なのです。

  悪魔が与えた善悪の実は、自分が正しいと思うところに従い、人の基準で物事をはかります。善である神に尋ね求めません。神を善とはしません。神を信じていないからです。

  天から遣わされた贖いの子羊は、罪を犯さず、完全に律法を守り、神に完全に聞き従って神の義そのものでした。彼は、人類の罪を贖う神の子羊、生贄として神に受け入れられました。

  キリスト・イエスは、罪人が仰いで生きるように、と神が十字架に付けたのです。神の羊たちは、十字架につけられた神の子羊を仰いで、死から復活し、永遠に生きるのです。

  木につけられた生贄の、神の子羊イエスによって、イスラエルの律法の違反による呪いは取り除かれました。被造物の初穂であるイスラエルが贖われた事で、被造物全体の罪は贖われたのです。

  十字架につけられた神の子羊イエスは、死から甦られました。イエスが神から遣わされたキリストであることを信じる事が、神が用意された「義」なのです。それが、いのちの木の実を食べることなのです。

  イエスがキリストであると信じる信仰が、神に受け入れられる「義」です。義人は信仰によって生きるのです。神の子羊イエスを信じて、イエスを主と告白する義人は、死から復活して、神の国で永遠に生きるのです。

  神への信仰がなければ、イエスが主である事はわかりません。キリストの御霊によらなければ、イエスが主キリストである事を告白できません。

  律法は、信仰が無くても、行うことが出来るのです。しかし、律法は、人の良心を完全にする事は出来ません。律法では、魂は救われ無いのです。