神の預言者は、神に忠実である成熟した預言者のイメージがありますが、ヨナは、駄々っ子のようでした。
不遜な者であったわけではありません。生粋のイスラエル人です。真の神を信じない、無割礼(神との契約の無い異邦人)の者とは聖別されたユダヤ人として、ユダヤ人を教え、神に目を向けさせる働きをしていました。
ユダヤ人は頑なな民でした。いつも、神に逆らっていました。神のことばを敬う者も、神を畏れる者もいません。
戦いから帰って来ると、異教の神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏し拝み、これに香を焚く王に、主は怒りを燃やしました。預言者が、神のことばを告げても、聞き入れません。
王の心は高ぶり、主に対して不信の罪を犯しました。主の神殿に入り、神に聖別された祭司達、アロンの子らの任務である香を自ら焚こうとしたのです。
イスラエルの王や民は、神を畏れていませんでした。預言者達のことばは、虚しく地に落とされました。
アッシリア人は、残忍で力強い民です。神の祭司と預言者がいるイスラエルでさえ、神のことばにへりくだりません。ましてや、イスラエルの敵国である、外国のアッシリアで、ニネべの町が神のことばを聞こうとするのでしょうか。
ヨナにとって、イスラエル人がイスラエルの神に聞き従わないのに、残虐でイスラエルを苦しめるアッシリアのニネべが神のことばを聞き、従うのは、嬉しい事ではありません。
イスラエルの敵国が滅ぶことは喜ばしい事です。ニネべの人々が、おとなしく神のことばを聞くでしょうか。ヨナの中には、ニネべが信じないで滅ぶことを望む心と、信じなければヨナはニネべの町で八つ裂きにされるかも知れない、という恐れもあったのかも知れません。
神がヨナに命じられたということは、ニネべは悔い改めることを知っておられるからでしょう。神は二度もヨナに命じられたのです。
案の定、ニネべは王も民も悔い改めました。イスラエルでは見たことの無い、真の神を畏れる姿です。イスラエル人には退けられてしまうイスラエルの神のことばを、ニネべの人々はへりくだって聞き入れ、イスラエルの神に悔い改めたのです。それで、ニネべは、滅びませんでした。
ヨナがニネべから逃れて乗った船の人々も、イスラエルの神を聖なる主、偉大なる天の神と信じて畏れ、へりくだりました。
外国人がイスラエルの神を、すべての神々にまさる偉大な神、と分かるのに、その全能の神の民イスラエル人は、イスラエルの神を捨てて、外国の神々を拝んでいました。
ヨナは正直な人でした。ヨナの不機嫌を直そうと、とうごまを生やした神は、一日でそのとうごまを枯らしました。ヨナの喜びは怒りに変わりました。
すると、神はいわれました。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは、言います。「わたしが死ぬほど怒るのは当然のことです。」
ヨナは私達と同じ人です。特別な人ではありません。感情をそのまま、神にぶっつける正直な人でした。
自分が敵だと思っている人、自分に立ち向かってくる面倒な人が、自分の信じる神の祝福を受ける事は、望むところではありません。
いら立たせる人、よこしまな人、何故、いつもこうなんだろうと感じる人。ある時、気づきました。彼らは、永遠の火で焼かれるに相応しい生き方をしているんだ、悪魔に繋がっている者は、滅びる者のわざをするんだ、何も不思議なことは無い。
彼らに良い行いを期待する事は、りんごの木に、ぶどうの実が実るのを期待するくらい、見込み違いな事を望んでいたことに気づきました。
滅びる者にとっては、この世が天国です。今の世界以上の世界に行く事はないのだから、この世を楽しんでください、と思うだけです。
新宿にある東京都庁の展望台からライトアップされた東京タワーを眺めていました。眼下に広がる東京の高層ビルは働く人々の努力の結晶だな、すごいな、と思って見ていました。ふっと、終わりの時、あの東京タワーも倒れてしまうのだろうか、と考えたのでした。
とっても惜しい気持ちになりました。東京のシンボル、戦後の復興のシンボルとして希望を与えたあの美しいタワーが消えてしまう事があってはなりません。日本の人々の希望と努力の結晶が愛おしく思われました。
その時です。「あなたは、これらの建物を見て、建築物を惜しんでいるのか。わたしは、魂を惜しんでいる」と威厳ある重い口調で神は語られ、ヨナ書4:11「わたしは、この大きな町ニネべを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」のみことばを思い起こされました。
私は、人間が造った建造物を惜しんでいました。しかし、神は、福音を聞かないで死んでいく魂を惜しんでおられました。
右も左もわきまえない人間を憐れむ神の愛は、今日もひとりひとりに注がれています。人を造られた創造主は、被造物が滅ぶことで心を痛めておられます。
十字架につけた御子イエスに思いを向けるように、と願っておられます。神が救いのために地に遣わした御子を知るように、と願っておられます。
「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる。」のです。しかし、信じたことの無い方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことの無い方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。 聖書 ローマ書 十章13節14節