オリーブの木には、栽培種のものと野生種のものとがあるようです。
栽培種のオリーブの木は、神に愛を注がれ大切に育てられており、神に献げる油を生み出します。
野生種のオリーブの木は、自分達の思うままに生きて、偶像の神に捧げる油を生み出します。
栽培種のオリーブの木は、神の民イスラエルです。そして、野生種のオリーブの木は、異邦人です。
栽培種のオリーブの木の枝は、律法の縛りがなく、自由気まま好き勝手に、この世を生きている野生種のオリーブの木の枝を羨ましく思いました。栽培種のオリーブの木の枝は、栽培種のオリーブの木を嫌いました。それらの枝にはオリーブの実はなりません。
一方で、野生種のオリーブの木の枝は、栽培種のオリーブの木の枝が実らす実は良い実で、永遠に残り天の神の祝福を受ける事を知り、この力ある神に献げる実を結ばせたいと考えました。
神は、神に逆らい実を結ばせない枝をご自分の育てられた栽培種のオリーブの木から折り、神を求める野生種のオリーブの木の枝を接ぎ合わせられました。
野生種のオリーブの木の枝でも、栽培種のオリーブの木に接ぎ合わせられると、栽培種のオリーブの木の良い実を実らせました。野生種のオリーブの木の枝は、実を結び、神を讃えました。
しかし、栽培種のオリーブの木の実を実らす野生種のオリーブの木の枝が増えて来たので、まるで、野生種のオリーブの木が良い実をならせているかのようになりました。
良い実を実らす野生種のオリーブの木の枝は、実を実らせない栽培種のオリーブの木の枝を蔑みました。栽培種のオリーブの木の枝はどんどん折られて、野生種のオリーブの木の枝が勝ち誇りました。いくら勝ち誇っても、所詮、彼らは枝にすぎません。実を実らせているのは、栽培種のオリーブの木なのです。
栽培種のオリーブの木から養分を受けて、良い実を実らせている事を忘れて、自分達野生種のオリーブの木の枝が、神の民だと思うようになりました。
栽培種の木は、神が養い育てた神ご自身の木であり、神の選びと契約のうちに立っています。
初めに神は、アブラハムという信仰の種を植えました。種の中のイサクは、ヤコブ(イスラエル)を生み、イスラエルの根が地中深くに張られました。芽が出て、律法や預言者によりその木は大きく育ちました。そして、時が来て、神の御子イエスがイスラエルに生まれて、その木は律法と預言者を完成させるキリスト・イエスの立派な幹となったのです。
異邦人は、キリスト・イエスの救いを求めて、この神の御子の木に繋がりました。しかし、律法と預言者を重んじるイスラエルは、自分達が守って来たものに縛られて、神の新しい契約を拒絶しました。
それで、神の御子の幹から折られることになったのです。律法と預言者はキリストの雛形でした。イスラエルは、救いの実体であるキリストを拒み、救いの影を追い求めました。
神の御子の根、キリストの根は、神と契約を結ぶイスラエルです。アブラハム、イサク、ヤコブの忠実な信仰が、キリストの根であり、キリスト信仰の台木なのです。
根のない木は、実を結ぶことがありません。実を実らせたとしても、それはこの世での称賛であって、永遠に残る実を結ぶことはなく、神の賞賛を受けることはありません。
異邦人は、このイスラエルの契約の上に立たれるキリストに接ぎ合わされているのです。キリスト信者の信仰は、実は、この神の民イスラエルの契約にあずかっているのです。イスラエルの契約が破棄されれば、異邦人の救いもないわけです。
パウロは言います。
「根が聖ければ、枝も聖いのです。もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなた(異邦人)がその枝に混じって接がれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
枝が折られたのは、私が接ぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。その通りです。彼ら(イスラエル)は不信仰によって折られ、あなた(異邦人)は信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
見てごらんなさい。神の慈しみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは、厳しさです。あなたの上にあるのは、神の慈しみです。ただし、あなたがその慈しみの中に留まっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
彼ら(イスラエル)であっても、もし不信仰を続けなければ、接ぎ合わすことができるのです。もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木に接がれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっと容易く自分の台木に接がれるはずです。」