ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

実を結ぶ枝

 

 「イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。

 道端にいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。『どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。』

 イエスは答えて言われた。

 『まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、「動いて、海に入れ。」と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。』」(マタイ21:18-22)

 

 イエスが、いちじくの木にいちじくの実を探されましたが、見つけることができないとわかると、「おまえ(いちじくの木)の実は、もうならないように。」といちじくの木を呪われました。すると、いちじくの木は枯れました。

 

 実を結ばない木は、主人の役に立たないのです。

 聖書では、キリストに繋がる者を枝にたとえられています。キリストが木ならば、私たちは枝です。キリストはいのちの木です。枯れた木でもなく、死んだ木でもありません。キリストを信じる者は、生かす御霊の流れるいのちの木に繋がる枝です。

 キリスト者は、キリストからいのちを受けて、実を結びます。生かす御霊によって、御霊の実を結ぶのです。それは、義の実であり、神の望まれる御霊の与える実です。

 

 神は、キリストの木につぎ合わせられる枝を集めておられるのではなく、実を結ぶ枝を集めておられるのです。実を結ばない枝は剪定されます。

 神は、キリストの木に多くの枝をつぎ合わせて、大きくて立派な木にすることを望んでおられるのではありません。実を結ぶ枝によって、豊かに実を結ぶキリストの木を創造しておられるのです。

 

 実を結ぶために木が植えられているのです。農夫(神)は、木をめでるためにキリストの木を植えられたのではありません。多くの実を期待して、木を植えられたのです。キリストの木に実が豊かに実ることは、神の栄光です。多くのいのちが実を結ぶからです。豊かな実は、天の御国に帰る多くの魂です。永遠のいのちの実を結ぶ魂は、罪の贖いを成し遂げたキリストの栄誉であり、イエス・キリストを遣わされた神の誉れです。

 

 「イエスはこのようなたとえを話された。

 『ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。

 「見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」

 番人は答えて言った。「ご主人。どうか、今年一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」』」(ルカ13:6-9)

 

 実を結ばない枝(人)をキリストの木から切り外すなんて、愛の神がされるはずはないと、信じる人が多いと思いますが、神は、実を結ばない枝を求めておられるのではなく、生かす御霊の創造される実を結ぶ枝を求めておられるのです。

 

 キリストの木に繋がりながら、キリストの御霊の実を結ばないならば、ほかの木の枝と変わりないのです。

 キリストの木に繋がる枝は、キリストの復活のいのちの実を結ぶために、キリストに繋がっているのです。キリストに繋がりながら、新しい創造の実がないのは、キリストのいのちに繋がっていないことになるのです。

 

 新しい創造の実とは、罪を悔い改め神にへりくだる新しい心であり、キリストを主として神に祈り、神を賛美し、神を礼拝する新しい生き方であり、御霊が創造されるキリストに似た性質です。自分の努力や熱心によるものではなく、また、この世が与えてくれるものではありません。

 

 ぶどう園の番人(教会)は、実を結ばない枝も、枝の一つとして惜しみますが、ぶどう園の主人(所有者)である神は、実を結ばない枝を選定されます。神が求めておられるのは、キリストの木につく枝ではなくて、実を結ぶ枝なのです。

 

 いちじくの木の枯れたことが、マルコの福音書にも書かれています。

 「彼ら(イエス一行)がベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。

 イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた。」(マルコ11:12-14)

 

 「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 ペテロは思い出して、イエスに言った。『先生。ご覧なさい。あなたの呪われたいちじくの木が枯れました。』

 イエスは答えて言われた。

 『神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 また立っているとき、誰かに対して恨み言があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11:20-25)

 

 いちじくの木のなる季節でないのならば、いちじくの実が実っていないのは当然のこと。なぜ、イエスはいちじくの実がないと言って、いちじくの木を呪われたのでしょうか。

 

 実のなる季節ではないけれども、実のために、花芽が出ている季節であったかも知れません。あるいは、つぼみか花、小さな実が付き始める季節であったかも知れません。しかし、実のできるしるしが何もなかったのです。実のなる季節になっても、実を結ぶことのない木だったのです。

 

 実を結ばないいちじくの木は、何のために土地をふさいでいるのでしょう。いちじくの実を結ぶ木として神に置かれていたいちじくの木は、神に与えられた任務を果たしていません。自分の木を誇ったところで、そこに神の栄光があるわけではありません。どんなに立派な木(枝)に成長して人々に賞賛されたとしても、神の御心を果たさなければ、神は、その木(枝)を役に立たないものとして、切り倒されてしまいます。

 神の御国は、神に役立つもので満ちています。神の御心を果たすものたちが神の栄光を現わしているのです。

 

 イエス・キリストは、弟子たちに、枯れたいちじくの木を見せることで、神の御国には、実を結ばない木は存在しないこと、また、イエスがされたように、キリストの木につながる者が命じることは、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになると教えられたのです。

 

 ただし、祈るとき、もしだれかに恨み事があったなら、それを赦すことで、神も、恨み事を持つその人自身の罪を赦される、と言われました。そうでなければ、神に祈りながら、自分は罪の中にいるのです。

 

 イエスは言われました。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたし(イエス・キリスト)の名によって父(神)に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(ヨハネ15:16)

 

 パウロは言います。

 「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:11-15)

 

 私たちは、同じキリストの木に繋がる枝です。キリストに召されて、一体となったのです。私たちは、かしらのイエス・キリストにつく、キリストのからだなのです。

 神の御子キリストにあって、キリストの御霊(生かす御霊)に生かされる、天に属する「新しいひとりの人」なのです。

 

 私たちは、キリストの父から、尊い、すばらしい約束が与えられています。それは、私たちが、その約束ゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

 

 ペテロは言います。

 「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。

 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。

 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。

 ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまづくことなど決してありません。」(ペテロ二1:5-10)