ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

今は御霊の時代

 

  イエスの十字架の死後三日目に復活して天に上られた後、聖霊が天から下られて、聖霊に満たされた使徒の働きが始まりました。そして、多くの人が信仰に入りました。神との契約の割礼を受けておらず、メシアが来ることを知らずに待ち望んでもいなかった異邦人にも救いが及びました。

 

  異邦人の信者が増え、ユダヤ人との間に軋轢(あつれき)が生じました。無割礼の異邦人が、神の民イスラエルに入ることを快く思わないユダヤ人は、異邦人の信者に割礼を受けさせるように要求し、また、モーセの律法を守る事を命じるべきだと主張しました。

 

  使徒ペテロは言いました。「兄弟達。神は、異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私達に与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らも受け入れていることを証され、私達ユダヤ人と彼ら異邦人とに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によって聖めて下さったのです。

 

  それなのに、何故、今あなたがたは、私達の先祖も負いきれなかった軛(くびき)を、あの弟子(異邦人の信者)達の首に掛けて、神を試みようとするのです。私達が主イエスの恵みによって救われたことを私達は信じますが、あの人達もそうなのです。」

 

  すると、全会衆は沈黙した、とあります。

 

  使徒行伝で活躍した使徒達は殉教しました。異邦人の信者も増えました。すると、逆転した軋轢(あつれき)が生じたのです。

 

  異邦人信者は主張しました。キリスト信仰によって救われる恵みの時代には、割礼もモーセの律法を守ることも重要ではない。旧約は終わり、新約の時代になっている。ユダヤ人は、割礼も律法順守もやめるべきだ。彼らがキリストによる信仰によって救われているのならば、古い契約に留まるべきではない。やめることの出来ないユダヤ人は、キリストの弟子ではないし、仲間でもないとして迫害しました。

 

  

  使徒の時代には、キリストの弟子達は、ナザレ人のイエスを指導者とするナザレ派の人達として、ユダヤ教の一派に数えられていました。

 

  しかし、異邦人の数が増したキリストの弟子の群れは、新約聖書の権威を旧約聖書よりも高くあげて、ナザレ派ではなく、キリスト教を名乗りました。それで、それまでは、宗教の概念のなかったユダヤ人に、ユダヤ教という宗教の枠を設けさせたのでした。

 

  紀元前一世紀のバビロン捕囚で、ユダヤ人は、イスラエルの神こそが真に生ける神だと悟り、偶像を排除して先祖の神に立ち返りました。捕囚から帰還すると、神殿が崩壊されて神殿における儀式を失ったユダヤ人は、祭司を囲んで宗教文書の朗読や祈り、神の律法に基づく生活で、信仰を基盤とする神の民族となりました。

 

  彼らにとって、万物の創造主である全能の神、先祖の主に仕える生活は、宗教ではありませんでした。しかし、キリスト教の出現によって、ユダヤ教というくくりに位置づけされてしまいました。

 

  ユダヤ人は、出エジプトした荒野で金の子牛を作り金の子牛を神として拝んで、神を怒らせたイスラエルではなくなりました。モーセの作った青銅の蛇をつけた旗竿をいつまでも大事にして、香を焚いていたイスラエルではなくなりました。金の子牛も青銅の蛇も砕かれました。

 

  ユダヤ民族は偶像を拝む宗教の民ではなく、目に見えない神に仕える信仰の民、神の民となりました。

 

  キリストの弟子の中に、異邦人が増し加わると様子が変わりました。ユダヤ人の使徒が亡くなると、誰もイスラエルの神に立って忠告する人はいなくなりました。ユダヤ人は居場所を失い、異邦人が慣れ親しんだ偶像礼拝の様式である宗教を教会に持ち込みました。神から与えられた信仰は、宗教的なものとなっていったのでした。

 

  ユダヤ的な神との契約という概念が欠如しました。アブラハムから始まった人類救済の契約は取り除かれ、キリストが家畜小屋で生まれて、世に救い主が現れたとし、キリストの降誕を祝いました。

 

  聖書にユダヤ人の歴史が書かれていても、ユダヤ人とキリストとの関係を正しくとらえる事が困難になりました。イエス・キリストがユダヤ人であることを意識することのないクリスチャンもいます。

 

  イエス・キリストを神として、イスラエルから切り離して礼拝しています。イエスはご自分が神として礼拝されることではなくて、父なる神が褒めたたえられ、礼拝され、父が栄光をとられることを求めておられました。また、イエスはイスラエルの聖なる方なのです。

 

  異邦人の教会になって、ユダヤ人が排除した偶像、イスラエルを惑わした金の子牛や青銅のへびは形を変えて、キリストの教会に持ち込まれました。

 

  霊と真によって、霊なる神に仕えるはずのキリストの教会で、多くの像が立ち並びました。そして、聖書に書いてあるイスラエルとは、キリスト教会をさしており、ユダヤ人はイエスを十字架につけて神から捨てられた、と考えました。

 

  使徒が死んで、使徒行伝の時代は過去のこととなりましたが、御霊が働かれる時代は今も続いています。

 

  イエスが世に現れた時、律法に忠実なユダヤ人達は、イエスの新しい教えに耳を塞ぎいで拒みました。それで、救い主を待ち望んでいたユダヤ人から救いは取り除かれ、イエスを信じる異邦人に救いが及びました。

 

  イエスが天に上げられ、御霊の時代となりました。イエスは今、天の神の右の座におられます。天から遣わされた御霊は今、この地上におられます。

 

  神の御子イエスを天から遣わされた父は、イエスを主と告白して受け入れることを望まれました。神の御霊を天から遣わすことを父にお願いされたキリストは、キリストの御霊を受け入れ、御霊に聞き、御霊に従い、御霊と共に歩むことを望まれます。

 

  今の終わりの時代は、聖霊の時代です。御霊を心に迎え入れ御霊を意識して、御霊に聞き、御霊に教えられ、導かれていきましょう。

 

  キリストを信じる者に与えられる助け主、御霊は信者に必要な方です。御霊は真理に導き入れてくださる方です。

 

  御霊をないがしろにしてはいけません。御霊を消してはいけません。神の信仰は、御霊とともにあるからです。御霊の時代には、御霊に活躍していただきましょう。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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