ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰が守られる備えの祈り

 

  教会の牧師が、長崎の高木宇左衛門というような名前のカトリック信者の話をされました。

 

  江戸幕府が当時禁止していたキリスト教の信者(キリシタン)を発見するために、キリストの十字架像或いはマリア像などを木板または銅板・真鍮板に刻んだ聖画像の踏み絵を足で踏ませて、キリシタンで無い事を証明させていた時代の人です。

 

  キリスト教の棄教を強要されました。踏み絵を踏めば、キリスト信仰が無いとみなされて、無罪放免になります。しかし、もし踏まなければ、死刑や磔刑(罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などで刺し殺す公開処刑)に処せられるのです。

 

  多くのキリシタンは迷いました。信仰を捨てることを告白すれば、家に帰ることが出来ます。苦しい拷問の中で、とうとう信仰を捨てる告白を口にして、棄教する者が続出しました。

 

  絵踏の噂は教会を脅かしました。高木が集っていた教会には、立派な信仰者が大勢いました。高木の信仰は、鳥の勇気しかありません。立ち向かう勇気はありません。飛び立って逃げるだけです。鳥のように臆病で弱いのです。

 

  教会の信者は、最初に高木が転ぶ(棄教する)だろう、と思いました。誰もがそう思いました。高木本人もそれを自覚し、大変恐れていました。

 

  とうとう、彼らの村でも絵踏が行われるときが来ました。教会のメンバーがひとりひとり役人のもとに行きます。何としたことか、皆、早々と家に帰って来ました。誰もが信仰の人として敬っていた長老のような存在で、人々の模範的存在の立派な信者までもが、数日で家に帰ってきました。

 

  高木が帰って来ません。強靭な肉体、強靭な精神の人でも数日間で根をあげてしまうような、あの苦しい拷問に、高木が耐えられるとは思えません。すでに、皆が家に帰って来ているのです。

 

  教会の人々は、棄教を恥じながらも皆で集まり、高木がどうなっているのか、心配していました。自分達の挫折感よりも、高木がいまだに帰って来ない事に驚き、皆の心は、高木に向けられていました。

 

  絵踏の期間が終わり、高木が帰って来ました。教会の皆は、高木に尋ねました。

 

  高木はとうとう、踏み絵を踏まず、転ばなかった、というではありませんか。一同は驚嘆しました。

 

  あの信仰の弱かった高木が、未熟な信仰の高木が、一番に転ぶと思っていた高木が、どうして、あの拷問に耐えられたのか。しかも、死刑に処せられる事なく、生きて帰って来たのです。

 

  高木は言いました。「自分は、怖くて怖くてしかたがなかった。自分が一番に転ぶ者だと分かっていました。だから、祈っていたのです。」

 

  高木は毎日毎日、ロザリオの珠を数えながら、熱心に祈りました。「私は信仰の弱い者です。拷問や死刑が恐ろしくてたまりません。きっと、神を裏切って踏み絵を踏んで信仰を捨ててしまいます。神を呪うかも知れません。助けて下さい。神を裏切ることが無いように守って下さい。私は弱いのです。」

 

  すると、神が祈りに答えて、守られました。拷問でも痛みもつらくなくて、心には平安がありました。神がともにおられて、高木が信仰を失うことの無いように、信仰を持ち続けることが出来るように守って下さったのです。

 

  (『祈り』って、すごいな)と思いました。これから、患難の時代に入ると聖書に預言されています。患難のことを思うと震えあがります。しかし、この高木の証を聞いて、(祈り備えよう。神を否定して裏切り、信仰を失ってしまう事がないように、神に祈ろう。きっと神が守って下さる)と思いました。

 

  それまで、信仰があれば守られると思っていました。キリストを信じていれば守られる、と思っていました。しかし、高木の教会のメンバーは、皆転びました。彼らの信仰では、この苦難を克服する事は出来ませんでした。

 

  守られるために祈る祈りが、高木に勝利を与えました。高木は、神により頼み、神にすがり、神の信仰にゆだねました。その祈りは、高木自身の信仰ではなく、神の信仰を自分のうちに建て上げました。

 

  自分の信仰に立つ者ではなく、神の信仰にすがる者となったのです。信仰は自分自身のうちには無い、と知り、自分の信仰ではなく、神に信仰を求めたのです。それで、神は、ご自身が与える信仰、御霊の信仰を与えられたのです。

 

  自分の知識や知恵や努力をむなしいものと考え、この世の信仰、自分の信仰により頼まず、自分自身の肉に死んで、キリストの「父よ。わが霊を御手にゆだねます」の信仰にならって、復活のいのちの信仰、天に通じる御霊の信仰の道が開かれました。

 

  この神の信仰が、高木の信仰を守ったのでした。高木は神とともにおり、神のうちにあって苦難をくぐり抜けたのでした。

 

 

  以前、天国に行って、石打ちの刑で殉教したステパノと会った人の証、という話を聞いた事があります。「痛かったでしょう」と尋ねると、「いいえ、死に至る直前に、主イエスが私の魂を受けて下さいました。」とステパノは答えました。

 

  ステパノは主を呼んで、こう言っていました。「主イエスよ。私の霊をお受け下さい。」聖書に書いてあります。

 

  ある殉教者の証です。明日は火あぶりの刑で生きたまま体を焼かれます。前夜、牢獄に灯る一本のろうそくの炎に手をかざしました。一瞬で手を引っ込めました。熱くて、とても耐えられません。

 

  「たった一本のろうそくの炎にも耐えられません。主よ。助けて下さい。大きな炎に焼かれて、御名を拒むことがありませんように。御名を辱めるようなことをしませんように。神を賛美しつつ神の栄光を現わすことが出来ますように。」

 

  翌日、体が焼かれる大きな炎の中にあっても、熱さも痛みも苦しみも感じることなく、神にゆだねる平安な彼の魂は、神の御手の中に入ったのでした。

 

  信仰を最後まで持ち続けていられるように、神とともにいられるように、祈り備える事は、大切なことだと思います。

 

  祈っているか、祈っていないかで、結果は大きく変わってしまいます。