ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本の天皇

 

  「天皇陛下、万歳」と言って、兵士は死んでいった、と戦時中の事が語られていましたが、実際は、「お母さん」と言って亡くなる人が多かったと聞きます。

 

  天皇が戦争を起こしたと誤解されやすいですが、本当は、あまり乗り気では無かった天皇が政府が決めた事に承認を求められて、それを認める形で始まったといわれます。

 

  この戦争責任という事を生涯にわたって考えられ、後悔されたようで、孫に当たる浩宮様(現天皇)と礼宮様(現秋篠宮)に事あるごとに、「戦争はいけない。戦争をしてはいけない」と言い含めておられたようです。

 

  終戦後、降伏文書の調印式が行われ、米軍による戦争犯罪者の逮捕命令の動きがある中、天皇の退位や戦争責任も言われていました。

 

  昭和天皇は、マッカーサー元帥を極秘に尋ねられました。命乞いに来たのか、とマッカーサーは思ったことでしょう。しかし、違っていました。

 

  天皇陛下は言われました。「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任を取ります。」マッカーサーは驚き、興奮したそうです。

 

  「閣下が私をどう扱おうとそれは構わない。私はそれを甘んじて受ける。絞首刑にしても構わない。ただ私は戦争を望んだことは一度もなかった。」

 

  聖書の教えに立てられた国のアメリカのマッカーサーは、神道の日本の天皇に、キリストの愛に通じるものを感じたのではないでしょうか。

 

  真理はひとつ。天地万物を造られた神もおひとりです。神は世界を覆い、すべての民族を生かし、動かしておられる、生ける霊なる神です。

 

  日本は神道ですが、そのうちに働く神の真理の働き、聖書に書かれている神の愛を見て取られたのではないでしょうか。

 

  マッカーサーは、犯しがたい高貴な天皇の存在意義を確信されたのではないでしょうか。天の神は、天皇を残されました。

 

  日本の神が守ったとも言えますが、実は、日本人が神として畏れ、仕えて来た神は、ノアを大洪水から救い出された神、アブラハムを義とされた天地創造の神であり、日本の国にご計画を持たれる、この世界の統治者なる神が、マッカーサーの心を動かされたように、思います。  

 

  戦後二十年の夏、戦後の印象深い出来事について聞かれた時、マッカーサー元帥との会見を挙げられました。

 

  昭和天皇は、生涯、平和を願っておられました。

 

  令和の天皇が皇太子時代、雅子様との結婚パレードの中継をテレビで観ていると、ある番組で、聖所のような場所がしばらく流れていました。

 

  それが何だったかは分かりませんが、カメラが初めて入ったとされる場所でした。私は伊勢神宮として記憶していましたが、本当はどこなのかは覚えていません。

 

  しかし、衝撃が走った事は、はっきりと覚えています。一つ一つに説明が入るのですが、聖所と至聖所のその様子は、まるで、聖書の中に書かれているもののようで驚きました。

 

  聖書では、聖所で仕える者は、神によってレビ族と定められています。至聖所に入る者は、その年の大祭司ひとりだけであり、それ以外の者が入るならば、直ちに神に打たれて死んでしまいます。神に聖別され、油注がれた者だけが許された聖域でした。

 

  それ以前にも、テレビのニュースで、三重県の村のお祭りの様子の映像が流れた時も、息を飲みました。

 

  神に仕える男たちは、皆が白装束でした。白装束の男が角笛を吹きながら進むと、その後に白装束の男たち四人位が、木箱のような神輿を揺り動かさないで静かに恭しくかついで従うのです。その後ろに何人かの白装束の男が列になって続くのです。

 

  こんな祭りは見た事が無い。まるで、旧約聖書のエリコの城壁を回った祭司達のようではないのか、と本当に驚きました。

 

  アロンの子孫の大祭司が年に一度至聖所に入って、全イスラエルの罪のために執り成していました。しかし、ユダヤ人がバビロン捕囚されて、神殿は崩壊されました。ユダヤ民族は、天の神に仕えるために地上に置かれていましたが、その機能を失ってしまいました。

 

  神は、天の神に執り成す人を必要としておられ、自然の中に神の存在を認め、いのちの神を畏れる日本の地に、このいのちの神に仕える祭司として、天皇を置かれたのではないのか、と思います。

 

  日本の天皇なのに、世界の平和のためにも祈っておられる事は、世界にとっても、とても大切なお勤めなのだと思います。

 

  天皇は、世界を統べ治める唯一の神が、神に仕える者として、他民族から守られた日本の地(他民族は日本に入って来ると日本人に同化したので、民族の分裂は無かったのです)に置かれたのではないのか。神は、ユダヤ人が離散して、神の祭司の王国の役割が果たせなくなっても、地上で天の神に執り成す人を必要とされ、天皇を立てられたのではないのか、と思います。

 

  神は、日本の天皇にその役割を与えられたのではないのか、と思ってしまいます。

 

  ある牧師は、日本に天皇が存続しているのは、キリストのひな型として置かれている、と言っておられるようです。世界を治める平和の王なるキリストが天から来られる事を示すために、極東の地で、しるしとして置かれているのだそうです。