ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

分かれる日本人

 

 日本は、日本の君によって守られて来ました。イスラエルが第一の君のひとりミカエルによって守られているようにです。(ダニエル書10:13)

 

 黙示録16:5には、水を司る御使いが出てきます。水とか火とか風とか、あらゆる自然現象や被造物には、それを司る御使いがいるのでしょう。御使いは、神が遣わされた天上の人々です。霊的存在です。霊的に捉える日本人は、その御使いの存在を捉えました。それで、霊的存在を神とすることで、それぞれの御使いに、御使いとは知らないで、神の名前をつけて、神として尊んできたのでしょう。

 

 日本の神は八百万の神と言って、大勢いるようですが、本当はそれらの神々は、創造主の御使いであって、日本人はそれとは知らないで、神の御使いを拝んで来たように思います。日本人が拝んで来た神々は、天上のものだったのです。それらの神々を畏れることで、真の神、創造主を敬っていたのです。

 

 日本人の神は、聖書の神、創造主が遣わした天に属するものだったのです。人間が作った、地に属するものではありません。日本の神々の名前には、「命」という漢字が入っています。「みこと」と読みます。神々の根源が、いのちの神であることを知っていたのです。

 

 霊なるまことの神を畏れるアブラハムは、目に見える姿をとって現れた御使いを見ると、それとは知らずに走って行き、地にひれ伏して礼をして迎えました。アブラハムの霊は、天のものを捉えることが出来ました。聖書の無い時代に、アブラハムは神を、霊によって捉えたのです。

 

 日本人には、このアブラハムの信仰に似たものがあります。自然とともにおられる、肉眼では見えない存在を肌で感じ畏れてきました。聖書を知らない日本人は、霊によって神を捉えました。

 

 日本の神々の世界に、悪しきものが入り込んで来ました。人間の欲望を足場とした人間を神として祀る神社や、獣やはうものを神とする神社が現れました。

 

 キリスト教では、聖書的でない教えの教会を異端として、自分たちの群れから排除します。しかし、和合を尊ぶ日本人は、人間から出ている神社や、地に属する神社までも一括りにしてきたようです。専門家は、その違いを把握していますが、知識の無い一般人は、権力者によって操られ、騙されて来ました。

 

 「神」とは有り難い存在です。神と名のつくものを否定するのは、はばかられます。日本の神々を階級の高い人々が拠り頼むものであるとし、一般庶民は近くに祀られた地に属するものをためらいもなく、拝んで来たのかも知れません。

 

 日本の神々とともに歩んできた日本人の魂は、地に属するものに成り下がっています。天上の神に繋がる事を望むならば、天上の声に耳を傾け、天上の神に従わなければ、いのちの道に辿り着くことが出来ません。「命(みこと)」のつく名の神々を信じていながら、人間の作った偶像も拝みます。それで、霊の目も耳も塞がってしまいました。

 

 しかし、終わりの時が来て、神は、日本人の霊を呼び覚まされます。日本人の霊を揺さぶり、霊的感覚を目覚めさせるのです。

 

 すべての日本人ではありません。神の国に属する日本人が目覚めます。

 

 目に見える現象に仕える、地に属する日本人と、霊的に開かれ神の国に仕える、天に属する日本人とに分かれていくでしょう。

 

 キリスト教会もそうです。文字に仕える者と、御霊に仕える者に分かれます。地に属する者と、永遠のいのちの道に入る者に分かれるのです。

 

 すべてのものがそうです。目に見える現象につく者と、目に見えない霊的なものにつく者とに分かれます。神の国日本でも、そのことが起こります。

 

 世は、悪魔の支配に移行して行きます。闇の世となっていきます。闇の世に向かって体制を整える、地につく日本人と、神の国に思いを向けて体制を整える、天につく日本人に分かれます。