イエスは使徒達に、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」といわれた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
そこで彼らは、舟に乗って、自分達だけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
ゆっくり食事をする時間さえないほどに、神のことばを伝えるために忙しく働いていたイエスご一行でした。
イエスは弟子達の体を気遣われました。彼らには、休息が必要です。「しばらく休みなさい」といわれました。
イエスのことばに促されて、使徒達は舟に乗って、人のいない所に向かいます。しかし、それに気づいた群衆は先回りします。イエスが使徒達の疲れた体を気遣ったのに、彼らは休むことが出来ません。
使徒達に休息を与えようと考えるイエスですが、駆けつけた多くの群衆が目に入りました。彼らは救いを求めている羊です。救いに導く者のいない、羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れまれました。
イエスはいろいろ彼らに教え始められました。時刻も遅くなり、イエスは、その場で、給食のわざをされました。小さな男の子が持っていた五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いて群衆に配るように、弟子達に渡しました。
人々は皆、食べて満腹しました。男だけでも、五千人いた群衆は、女も子どもも皆、食べて満腹になったのです。
肉体を持つ神の御子イエスは、人には、肉体のために食べる物や休息が必要な事をよく知るお方です。
それからすぐに、イエスは弟子達を強いて舟に乗り込ませ、自分より先に向こう岸へ行かせて、その間に群衆を解散させ、帰してしまわれました。
イエスは、良い牧者です。羊を愛され、また、羊飼いをも愛しておられる方です。どの人をも犠牲にはされません。報いを用意しておられるお方です。
イエスは、人を神の働きの駒のようには扱われません。どんなに小さい者にも目を向けて、慈しみ、ねぎらわれるお方です。
イエスは、知っておられます。肉体を持つ人の子であったから、お腹が空いたら力が出ないことや、食べ物を食べて栄養を付けないと体が弱ることや、睡眠をとらないと思考が働かなくなることや、休息をとらないと体力が衰えること、肉体の弱さをすべてご存知です。
そして、人は弱い羊であることもよくご存知です。御霊の導きがなければ、簡単に道を外れてしまいます。
弟子達は、自分達は大丈夫!と思っていたのでしょう。先生がまだそこにおられるのに、私達が先に舟に乗って先生をひとり残して帰って良いものでしょうか。しかし、イエスは弟子達を強いて舟に乗り込ませたのでした。
イエスは、仕えられるために来られたのではなく、かえって仕えるために来られたのでした。
イエスはいわれました。
「あなたがたも知っている通り、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人達は彼らの上に権力を振るいます。あなたがたの間では、そうではありません。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」
異邦人の支配者とは、神の国に入ることの無い人のことです。この世の人々の在り方です。しかし、神の国では、しもべや仕える者が、高く上げられるのです。
神の国にはこの世とは違う価値観を持った主権者がおられるのです。この主権者の価値観が神の国を覆っているのです。ですから、神の国に入る者は、この世であっても、後の世界の主権者である神の価値観に従って、歩んでいるのです。
しもべだからと言って、自分を無にして四六時中奴隷のように仕えるように、とは望んではおられません。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしの軛(くびき)を負って、わたしから学びなさい。そうすれば、魂に安らぎが来ます」とイエスは、言っておられます。
日本人は真面目で、働くことを良しとします。休憩中なのに、他人が働いていると、休憩することに対して咎める思いを持ちます。休息をとることにも、信仰がいります。
イエスは、忙しく働いた弟子達に、しばらく休みなさい、といわれました。弟子達を休ませるために、イエスは弟子達を強いて舟に乗り込ませたのです。イエスは、疲れている人に休みを強いられる方でもあるのです。
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とイエスがいっておられるのに、荷を重くしているのは誰でしょう。
世への気遣いや、他人の荷まで背負っているのかも知れません。ひとりひとりの労苦は、その人に十分なものです。神から出ていない重荷は、イエスの足元に置き、イエスの軛を負いましょう。
重荷をひとりで抱え込まないで、主に打ち明けて、主が背負わせてくださる荷だけを負いましょう。
あなたがたを休ませてあげますと、みそばに招いてくださるイエスのもとで、信仰を持って安心して休みましょう。