ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

わたしはある

 

  唯一全知全能の神は、御自身を「わたしはある」と名乗られました。

 

  わたしはあってあるもの。わたしは在って在るもの。

 

  永遠の昔から存在し、万物の存在の目的であり、原因である方。はじめからあるいのちであり、いのちの根源である方なのです。

 

  すべてのものは、「わたしはある」方の中にあって、存在しているのです。

 

  しかし、人は、私があると思っているのです。自分が在る。己が存在していると思うのです。「わたしはある」方に服従することなく、私という独立国を作り自分が存在していると思うのです。

 

  「わたしはある」方の国には調和があります。一糸乱れぬ調和です。すべてのものは、「わたしはある」方の中に存在し、「わたしはある」方のご意思によって、治められているのです。

 

  「わたしはある」方が頭(かしら)であって、すべてのものは、この方のからだであるかのように、ひとつです。すべてのものは、「わたしはある」方に従い、ひとつのものでした。従うという意識もなくひとつのものでした。

 

  「わたしはある」方の思いが、すべてのものの思いであり、「わたしはある」方の心がすべてのものの心なのです。

 

  すべてのものは、「わたしはある」方によって造られていました。万物は、「わたしはある」方によって、「わたしはある」方のために造られたのです。

 

  主権はこの方にありました。主権という言葉が存在する前から、そのことは、至極当然のことでした。

 

  しかし、御子を妬むルシファーに、乱れが生じました。秩序正しく働いていた、「わたしはある」方の中に、不調和分子が現れたのです。ルシファーは改めようとしません。それどころか、「わたしはある」方の中に、自分の勢力を持とうとしたのです。

 

  「わたしはある」方の中に、分裂があってはなりません。神が、存在の目的であり、存在の原因である方です。存在の目的から外れたルシファーは、天から追放されました。多くの天使を率いるルシファーは、多くの天使を伴って天から出て行きました。

 

  ルシファーは、「わたしはある」方に逆らい、神の主権に背いて、自分の存在を主張しました。追放された闇で自分が支配者となり、光の神「わたしはある」方に敵対しました。天から追放されたルシファーは、悪魔となりました。

 

  悪魔は、神になりたかったのです。すべてのものの上に立って支配する主権者になりたかったのです。しかし、神ではありません。創造する力はありません。

 

  悪魔は、神が創造された人(アダム)を、神から奪い取り、悪魔に仕える者としました。善悪の木の実を食べさせて、「わたしはある」方から引き離し、己を神とする悪魔の子としたのです。

 

  善悪の木の実は、自分で考え、自分で善悪を判断する神のような知恵者となるための食べ物でした。

 

  善悪の木の実を食べた者は、「わたしはある」方の中にいることは出来ません。自分が主人なのですから、神に支配されたくはありません。神の指示を受けなくても、何でも自分でやって見せるのです。

 

  悪魔は「わたしはある」方から奪い取った人を、闇の中で育て、悪魔の子としました。悪魔には調和はありません。無秩序、無法の世界です。互いに争い、奪い合って、自分のものとします。どの自分も、自分が主人です。どの自分も、自分を主張します。

 

  「わたしはある」方の調和の光から外れた人は、存在の目的を見失いました。神のことばに背き、存在の目的である「わたしはある」方を見失ったので、当然の報いでした。

 

  人は非常に良いものとして造られたのに、非常に良いと喜ばれた創造主のことばに背き、善悪の木の実を食べて、神に敵対する悪魔に捕らえられてしまったのです。

 

  長い歴史の中で、人は人を造った創造主も、調和のとれた光の世界のことも思い出せ無くなっています。

 

 

  この世がすべてだと教え込む悪魔の偽りを信じ、人を愛さず、人が幸せになる事を望まない悪魔が与える、虚しい楽しみを享受します。

 

  「わたしはある」方から離れた人は、自分が生きている、命は自分のものと考え、肉体の命を生きることに心を向け、心を合わせます。

 

  肉体は死んでも、魂は生きると分かっても、その魂が生きる場所を、悪魔が与える宗教の中に求め、やはり、悪魔の支配から抜け出せません。

 

  「わたしはある」方の中にいて、存在することが出来るのです。「わたしはある」方から外れた人は、神の御前での存在を失いました。あるものでは無くなったのです。死ぬものとなりました。

 

  死は「わたしはある」方の中にはありません。悪魔の住む闇と悪魔の中にあるものであす。

 

  アダムをエデンの園から追放した時に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置いて、いのちの木への道を守り、人が入れないようにされました。「わたしはある」方に背いたまま、永遠に生きることが無いようにされたのです。

 

  神は、終わりの時代になって、神の御子を神の子羊イエスとして世に遣わされました。人の罪の身代わりの神の子羊イエスは、生贄として、十字架で屠られました。贖いの子羊の肉は、輪を描いて回る炎の剣、神の怒りを静め、子羊の血は、人の罪を贖いました。

 

  それで、閉ざされていたいのちの木への道は開かれたのです。「わたしはある」方のもとに帰る、いのちの道が設けられました。

 

  イエスが神が遣わされた神の子羊であることを信じ、キリスト(救世主)であると告白し、主キリストの御霊とともに歩むことで、「わたしはある」方のもとに帰り、永遠に生きるのです。

 

  神が天から遣わされた救い主キリストを受け入れない者は、世と共に、悪魔に用意された永遠の火の池で焼かれるのです。

 

  人は、選択するだけです。人には、選択が迫られます。

 

  光を求めて自分の欲望に死に、自分を神に明け渡して、「わたしはある」方のもとに帰り光と調和して、永遠のいのちと霊のからだで永遠に神の子として生きるのか、闇を愛し、自分を愛して、生まれたままの本能に従い、悪魔と一緒に永遠の池に投げ落とされる悪魔の子として死んで滅びるのか。

 

  イエスはいわれます。

  「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません。」

 

  「わたしはある」方に繋がらなければ、誰も永遠に生きることは出来ません。「わたしはある」方から切り離された者は、切り花のように、枯れて捨てられ燃やされるのです。

 

  「わたしはある」方が地上に遣わされたイエス・キリストが、父のみもとに帰る道なのです。「わたしはある」方に繋がる唯一の道なのです。