ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

とげによって守られていたパウロ

 

  パウロは言います。「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」

 

  パウロの肉体のとげとは、弱視ではないか、と言われています。

 

  パウロはガラテヤ人の手紙の中で、「ご覧の通り、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」とあることから、そう思われているのかも知れません。

 

  また、ガラテヤ人への手紙では、「私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、嫌ったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。

 

  それなのに、あなたがたの喜びは、今どこにあるのですか。あなたがたは、もし出来れば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか」とあります。

 

  パウロはユダヤ教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活していました。祭司長達から権限を授けられたパウロは、キリストの弟子である多くの聖徒達を牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じ、主の弟子達に対する脅かしと殺害の意に燃えていました。

 

  そんなパウロがイエスの教えの道の者を見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来ようと、熱心に働いていたときのことです。

 

  ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。何故わたしを迫害するのか」という声を聞いた。

 

  彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。

 

  「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 

  同行していた人達は、声は聞こえても、誰も見えないので、ものも言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目を開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。

 

  彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

 

  さて、ダマスコにアナニヤという主の弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」といわれたので、「主よ。ここにおります」と答えた。

 

  すると主はこういわれた。「立って、『真っすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者が入って来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」

 

  しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒達にどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者達を皆捕縛する権限を、祭司長達から授けられているのです。」

 

  しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王達、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」

 

  そこでアナニヤは出掛けて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 

  するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。

 

  サウロは、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。ユダヤ人達はうろたえ、サウロを殺す相談をした。

 

  サウロは、別名でパウロと呼ばれた。また、イエスが任命した十二使徒とは別に、異邦人の使徒として神に召されたのです。

 

  天からの神の光に照らされて、一度視力を失ったパウロは、その時から、目が弱くなったのかも知れません。また、主の弟子達の間では、サウロが主イエスの御名を呼ぶ者達を捕縛し、エルサレムで滅ぼした者であることは広く知れ渡っており、主の弟子達は彼を主の弟子だとは信じないで、サウロを恐れていたため、パウロという名で呼ばれるようになったのかも知れません。

 

  パウロは熱心に主に仕えました。牢に入れられたことも多く、また、鞭打たれたことは数え切れず、死に直面したこともしばしばでした。

 

  学問に秀でたパウロは、視力が衰えて律法や知識によらず、主イエスに依り頼む者になりました。

 

  パウロは言います。「キリストが私を遣わしたのは、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架が虚しくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私達には、神の力です。」

 

  「『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを空しくする』と書いてあります。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

 

  事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それ故、神は御心によって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

 

  ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私達は十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょう。

 

  しかし、ユダヤ人でもギリシャ人でも召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。何故なら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 

  パウロは、三度も肉体のとげを私から去らせてくださるようにと、主に願いました。しかし、神は取り去ることはなく、その弱さのうちに神の力が完全に現れることを、教えられました。

 

  人が完全にならなくていいのです。それは、その人自身を高ぶらせる恐れがあります。弱さは、主を求めさせます。主の助けを必要とします。

 

  肉体の弱さはパウロが神のものである刻印であり、パウロがへりくだって神のもとに安全に帰るための神の守り、神の愛の証かも知れません。

 

  神は、その人が良い働きをするために、また、神から離れずにいつまでも神とともに居るために、神の助けを必要とする場所をその人のうちに設けておられます。弱さは、神の恵みなのです。

 

  弱さを覚える人の弱さは、神の守りであり、神の御前で誰も誇らせないためです。

 

  パウロは言います。

  「あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私達にとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主にあって誇れ』と書かれている通りになるのです。」