ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神に子どもがいたのか

 

  ユダヤ人は、神に子どもはいない、と考えました。神は神です。ユダヤ人の仕える神はおひとりのはずです。

 

  一神教なのではないですか。神に子どもがいるなら、多神教じゃないですか。神が複数いるってことでしょ。

 

  聖書には、三位一体の神と記載された箇所はありませんが、神は唯一である、とあります。それなのに、神が人を造られるとき、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」といわれました。

 

  われわれとは、複数をさします。けれども、唯一の神である、と名乗られます。

 

  創世記をみると、「初めに、神が天と地を創造した」とあります。闇が大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた、とあります。

 

  神の霊が動いていたのです。神が「光よ。あれ」と仰せられると、光ができた、とあります。

 

  ヨハネは言います。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」

 

  ヨハネが言う「ことば」とは、この方と言われるように、人格者のようです。正確に言えば、神格者です。神とともにおられる方で、神とともに、すべてのものを造られたいのちであり、人の光となるいのちでした。

 

  すなわちことばは、世を照らし、人の希望の光となるいのちでした。人に永遠のいのちを与えるために、神に遣わされて世に来られた神の子羊イエスです。

 

  世界が造られる前から、神と、神の霊と、ことばが在ったようです。神がことばを発せられると、神の霊が働くのです。

 

  イエスが世に来て、神を明らかにされました。ユダヤ人が神と呼んでいる神は、父なる神であり、イエスご自身は神から遣わされた神のひとり子であることを明かされました。そして、もうひとりの助け主(真理の御霊)がおられることも話されました。

 

  ことばは人となって、ユダヤ人の間に住まれた。世とすべての人を照らす、真理の光でした。この方(イエス)はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 

  アブラハムは、神に命じられて、ひとり子イサクを生贄として屠ろうとしました。神は、アブラハムがひとり子を惜しまずに献げるのを見て、アブラハムの信仰を確認されました。

 

  神は御自身のひとり子を神の子羊イエスとして、世に遣わすことを決めておられました。神は、人の罪の身代わりとして、御自身のひとり子を十字架で屠り、人に永遠のいのちを与える計画でした。

 

  生贄としてひとり子を献げたアブラハムのうちにある、父の苦悩をご覧になって、神は、アブラハムを友と呼ばれました。ひとり子を生贄の子羊にする父の苦悩を、アブラハムは体験しました。神にも子羊となるひとり子がいたのです。

 

  聖書では、神を陶器師に例えています。陶器師は、自分の思い描く作品が出来上がるまで、制作中の器を自分の手で壊し、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えます。思い通りに出来上がる器はまれです。器も、陶器師に注文をつけたり、文句を言ったりはしません。

 

  陶器師には、ひとり息子がいました。ひびや欠けのある器も、不格好な形の器も神の国で使われる、永遠に欠けることも割れることもない完全な器にしたいと考え、ひとり子を粘土で作った器にしました。

 

  このひとり子の器を、器の中に置きました。ひとり子は、他の器たちに自分は陶器師の子であることを明かしました。器たちは嘲笑いました。陶器師の子どもが割れてしまうような弱い土の器になる、なんてことは信じられません。気に入った器が完成するまで、器を作り続ければいいだけのことです。器なんかになるよりも、陶器師の後を継ぐ人間でいた方が良いに決まってます。

 

  器のくせに、嘘をつくな、大ぼら吹きめと怒ります。見栄えのしない器のくせに大きなことを言うなと蔑みます。ひとり子は、神の手に逆らわず、砕かれ練られて役に立つ良い器になることを勧めます。他の器はうるさい!と言って憎み、器の王となろうとするひとり子を、皆で地に落としました。

 

  ひとり子は自分のことばを信じる器は、永遠に変わらない完全な器になることが出来ると言っていました。器たちには、何を言っているのかわかりませんでした。

 

  粉々に割れました。いい気味だ、と思いました。しかし、陶器師は粉々になった破片を集めて、全く新しい器に甦らせました。陶器師は神です。神の霊によって、永遠に割れない神の国で使われる器としました。

 

  完成され栄光に輝く器を見て、自分もそうなりたいと願い、陶器師に自分をゆだねた器たちは、陶器師のひとり子の足跡に従い、永遠に神に用いられる栄光の器となるのです。

  

  ユダヤ人は、神にひとり子がある事を知りません。神が、人の形で現れるのならわかるが、人として生まれ、人としてユダヤ人の間で生活されるなんてことは、想像もつきません。

 

  しかも、神の子が、貧しい大工の子であるはずがありません。神の子は、父もなく母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神に似た者であって欲しかったのです。聖書には、キリストはダビデの子と呼ばれる、栄光の王である、とあるではないですか。

 

  預言書の言うように、人が慕うような見栄えもなく、人々に蔑まれ、子羊のように弱い者であってはいけません。敵国からユダヤ人を守り、イスラエルにソロモン王国の栄華を再興してくれるメシアが良いのです。

 

  ユダヤ人は、イエスのことばを受け入れませんでした。それで、父なる神のことも、神の子イエスのことも、聖霊のこともわからないままです。

 

  日本神道の天御中主神(アマノミナカヌシノカミ)が父なる神、高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)が聖霊、神皇産霊神(カミムスヒノカミ)が神のひとり子と考えた場合、天御中主神が、人を世から救って天上に上げるために、神皇産霊神に肉体を造り、地上に生れさせた、という話を聞くと真向から否定することでしょう。天に座しておられる聖なる神が汚れた人間の間にお住まいになるはずは無い。天上の神が地に下って来られることは無い。霊なる神が、肉体を持つ人の子になるなんてことは、あり得ない。

 

  聖書の神は、このあり得ないことをして下さったのです。朽ちていく人を死と滅びから救い、永遠のいのちを与えて、神の御座のある天上で神とともに、永遠に生きる者としてくださるのです。

 

  いま、天上の神の御座に、父なる神と子羊となったひとり子が座しておられます。そして、地では、神が遣わされた聖霊の御霊が地上の人の子の刈り取りに向けて、働いておられます。

 

  「われわれ」と称される神は、三つにしてひとつの神なのです。天地万物を造られた唯一の神なのです。