ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

自分の役割を果たす

 

  ネヘミヤ記に、エルサレムの城壁を建て直し、廃墟となったエルサレムを再建する様子が書かれています。

 

  大祭司エルヤシブは、その兄弟の祭司達と、羊の門の再建に取り掛かった。彼らはそれを聖別して、扉を取り付けた。彼らはメアのやぐらまで聖別し、ハナヌエルのやぐらにまで及んだ。

  彼の次にエリコの人々が建て、その次にイムリの子ザクルが建てた。魚の門はセナアの子らが建てた。彼らは梁を置き、扉、かんぬき、横木を取り付けた。彼らの次に、コツの子ウリヤの子であるメレモテが修理し、その次に、メシェザブエルの子ベレクヤの子であるメシュラムが修理し、その次に、バアナの子ツァドクが修理した。

  その次に、テコア人達が修理したが、そのすぐれた人達は彼らの主人達の工事に協力しなかった。エシャナの門はパセアハの子エホヤダと、ベソデヤの子メシュラムが修理した。彼らは梁を置き、扉、かんぬき、横木を取り付けた。

  彼らの次に、ギブオン人メラテヤと、メロノテ人ヤドン、それに川向こうの総督の管轄に属するギブオンとミツパの人々が修理した。その次に、金細工人のハルハヤの子ウジエルが修理し、その次に、・・・と、修理した人々の記録が残されています。

 

  指揮を執った人の名前が残されているわけですが、そのひとりの人のもとには大勢の人がいて、皆で修理を完成させていったのです。

 

  それぞれの区域があり、自分達の区域の修理を担当したのです。修理に携わる人全員で全区域の修理をしたのではありません。そんな大掛かりなことはしません。自分の区域を自分のうちにいる人々が協力して、割り当てられた区域の修理をしたのです。

 

  自分達の修理が終了すると、次の区域の人々が、割り当てられた区域の部分を一丸となって修理します。そこの区域の修理が終了すると、次の区域が割り当てられた人々によってその区域の修理が始まります。

 

  人々は割り当てられた区域の修理を完成して、次の区域の人々にバトンを渡すのです。再建という大きなプロジェクトの一部を担うのです。

 

  こうして、城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。しかし、ユダヤ人を嘲る者達がエルサレムの城壁の修復がはかどり、割れ目もふさがり始めたことを聞き、非常に怒り、修理が完成しないように、エルサレムに攻め入り、ユダヤ人の中に混乱を起こそうと陰謀を企てたのです。

 

  工事をやめさせようとする敵の策略に対抗して、ネヘミヤは、民をその家族ごとに、城壁の後ろに剣や槍や弓を持たせて配置し、家族のために戦うように指示した。

 

  その日以来、若い者の半分は工事を続け、他の半分は、槍や盾、弓、鎧で身を固めており、隊長達はユダの全家を守った。

 

  城壁を築く者達、荷を担いで運ぶ者達は、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。築く者は、それぞれ剣を腰にして築き、戦いのために召集するための角笛を吹き鳴らす者は、ネヘミヤのそばにいた。

 

  武装して、城壁の修復工事は進められた。夜明けから星の現れる時まで、槍を手に取る者がいた。また、夜にも見張りがいた。ネヘミヤも若い者達も、見張りの人々も、誰も服を脱がず、それぞれ投げ槍を手にしていた。こうして、エルサレムの城壁が完成した。

 

  いまの時代に照らし合わせて考えてみると、ネヘミヤが聖霊、それぞれの区域の修理の担当は、キリストを信じる教会の宗派であったり、教派であったり。そして、その修理に携わった人々は、そこに属する教会の信者達です。

 

  つまり、それぞれの教会には担うべき働きがあって、割り当てられた神の働きを完成するために、メンバーが協力して作り上げていくことなのかも知れません。

 

  自分の所属する教会の働きを忠実に成し遂げることで、他の教会に貢献しているのかも知れません。宗派、教派の中での協力は必要ですが、それは自分に割り当てられた区域の働きだからです。

 

  それぞれが、割り当てられた神の働きを忠実に仕上げることで、キリストのからだは完成していくのでしょう。自分達が担うのは、その一部分ですので、全体がどうであるかは見えません、聖霊が御存じです。

 

  自分に割り当てられた区域以外の働きのことは分からなくていいのでしょう。それを知ることは、自分の働きと比較して優越感を味わったり、羨ましく思ったり、劣等感を抱いたりして、良いことは無いのかも知れません。キリストのからだに不和が生じてはいけません。

 

  すべての教会が成すべきことをすることで、キリストのからだは建て上げられるのです。一つ一つの地方教会は、キリストのからだの一部分です。その一部分を担っていた教会がみな自分の役割を果たすことで、キリストのからだが完成するのです。

 

  ひとりひとりは、主人である主を恐れ、主に任された任務を果たし、主の安息に入るのです。そして言うのです。「私達は役に立たないしもべです。成すべきことをしただけです。」

 

  また、神の働きが順調に進むと、敵(悪魔)がそれを破壊しようとして来ます。その時には、聖霊が彼らに武具をつけるように促します。救いのかぶとをかぶり、御霊が与える神のことばを受け、信仰の大盾を取り、悪い者が放つ火矢を消し戦います。祈りによって守られます。御霊を受けている者達は、武装して、神の任務を果たしていくのです。

 

  一つ一つの教会が大切にして来た信条が、神から与えられている役割なのかも知れません。祈りの中で、役割は示されていくことでしょう。

 

  あれもこれも、多くをこなす必要はないのかも知れません。キリストのからだに属する教会はたくさんあります。それぞれにそれぞれの役割が任されているのです。自分に任された役割に忠実であることが、神のしもべなのです。