ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の宮

 

  神の契約を持つ割礼の民ユダヤ人も、無割礼の異邦人も、すべての人が罪の下にあります。ひとりの例外もありません。人の子として来られた、神のひとり子イエスもこの世の罪の下に置かれ、十字架の死を遂げられたのです。

 

  律法のないところには違反もありません。神の契約の民に与えられた律法も、罪の意識を生じさせるだけで、律法を行うことによっては、誰ひとり神の御前に義と認められません。

 

  神は律法とは別に、律法と詩編と預言者によって証された方、神に油注がれて地に遣わされるキリストによる、神の義が示されました。

 

  この世は、罪に覆われており、人間は、罪に支配され、罪の下に服していました。悟りのある人も神を求める人もいません。すべての人が迷い出て、善を行う人はひとりもいませんでした。義人はひとりもいません。

 

  彼らの唇の下には、まむしの毒があり、その舌で欺き、彼らの口は、呪いと苦さで満ちています。彼らの喉は開いた墓であり、死臭を放ちます。彼らの後ろには、死と滅びが従います。

 

  彼らの足は血を流すために動き回り、彼らの道は破壊と悲惨があります。彼らは、平和の道を知りません。彼らの目の前には闇があり、神に対する恐れがありません。

 

  このような世に、神の御子イエスが来られました。人の子となって来られたのです。イエスは、神が律法と詩編と預言者によって証されていた「神の義」でした。

 

  イエス・キリストを信じる人は、神に義とされて、この悪い世の呪いから救い出され、死と滅びの裁きは免れて、神の子として受け入れられ、神の御国で永遠の安息が与えられるのです。

 

  この神の義には、割礼の民と無割礼の民の差別はなく、契約の民ユダヤ人と契約のない異邦人の差別も、何の差別もありません。イエス・キリストを信じる信仰による義は、すべての信じる人に与えられるものです。

 

  すべての人は、神の似姿に造られた誉れを侮り、他の神々を拝んで神の御名を汚し、神の栄光を踏みにじり、神に罪を犯して来ました。誰ひとり、聖なる神のもとに帰る人はいませんでした。この世にあって望みもなく、神もない人達でした。

 

  しかし、愛なる神は、御自身のひとり子を遣わし、神の子羊イエスは、罪の贖いの血を流されたのです。人の罪を赦すためでした。人を死と滅びから救い出すためでした。

 

  すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ませんでした。しかし、神は、律法と詩編と預言者によって証されたキリスト(救世主)によって、救いの道、永遠のいのちの道を設けて下さったのです。

 

  人の努力や熱心によるのではありません。ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 

  神は、「キリスト・イエスの血による贖いを信じる、その信仰によって義とされる」という新しい神の契約によって、御自身の裁き主としてのご主権と、御自身の義を現されました。

 

  キリスト・イエスの十字架の死は、神御自身の義を現すためであり、こうして神御自身が義であることを明らかにし、また、イエスを信じる者を義と認めるためでした。

 

  神は、キリストへの信仰によって義とされた人に、御霊を与えられます。御霊がその人のうちにあって、キリストのことばを思い起こさせ、教え、霊の子として生み、新しく造り変えて行かれるのです。

 

  主の御霊のあるところには自由があります。儀式や伝統や掟によるのではなく、自由の御霊があらゆる環境に働き、御霊の御力によって、造り変えて行かれるのです。

 

  人は、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主イエスの栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主キリストと同じかたちに姿を変えられて行きます。これは、御霊である主の働きによるのです。

 

  御霊の住まわれる信仰者は、主を宿す神の宮なのです。主イエス・キリストの御名と御霊によって、洗われ、聖なる者とされ、神に義と認められたのです。ひとりひとりは、キリストのからだの一部とされたのです。

 

  キリストのからだを遊女のからだとすることは、絶対に許されません。遊女と交われば、遊女と一つからだになるのです。不品行を避けなさい。不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

 

  御霊の住まわれる信仰者のからだは、うちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、もはや自分自身のものではないのです。彼らは、キリストの血の代価を払って、悪魔から買い取られ、罪の呪いの死と滅びから救い出された者です。

 

  肉の思いは神に対して反抗します。神に服従出来ないのです。肉にある者は神を喜ばせることが出来ません。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もし神の御霊が住んでおられるなら、その人は肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。その人は、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

 

  もしイエスを死者の中から甦らせた神の御霊が住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中から甦らせた神は、うちに住む御霊によって、その人の死ぬべきからだをも復活の霊のからだで生かしてくださるのです。

 

  肉に従って生きるなら、死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、その人は生きるのです。主と交わると、主と一つ霊となるのです。神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。

 

  神の恵みを無にはしません。人の罪は、キリストとともに十字架につけられたのです。もはや人が生きているのではなく、キリストが人のうちに生きておられるのです。この世に生きているのは、人を愛し人のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 

  キリストによって、ユダヤ人も異邦人も両者ともに、ひとつの御霊において、父なる神のみもとに近づくことが出来ます。もはや他国人でも寄留者でもなく、同じ聖徒の国民であり、神の家族です。

 

  彼らは、使徒と預言者という土台の上に立てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。キリストにあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、ひとりひとりもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 

  神の御霊とともに歩む忠実な聖徒である、神の宮が、天に引き上げられるのだ、と思います。キリストご自身が、空中まで迎えに来てくださり、神の宮は、キリストとともに天に上げられるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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