ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠の愛をもって愛する神

 

  被造物の初穂イスラエルに語られた神のことばは、十字架で流された神の子羊イエスの血で罪の贖いがされた以降は、ユダヤ人と異邦人の壁は取り除けられ、イエスが救い主だと信じる者すべてに向かって語られています。

 

  主はイスラエルに仰せられました。「剣を免れて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」

 

  抵抗できない大きな災いの中でも生き残った民に、神は何もない荒野で恵みを与えられます。何も無いのだから、恵みなんてあるわけがないというわけではありません。神の与える恵みは人の考えるものとは違います。

 

  人は食べる物にも困らず、雨風しのげる住まいがあって、安全に暮らせることが恵みだと気づかずに、金銭があることが幸せだと思い込まされてきました。贅沢に暮らす生活の豊かな人は恵まれていて、日々お金の心配をしながら、貧しい暮らしをする者は惨めだ、と思っています。

 

  しかし、神の恵みは、お金に満ち足りた、目に見て充実した場所にあるのではないようです。生きる希望が見い出せない、お先真っ暗な荒野に、恵みを用意されているのです。神の恵みは、霊的なものです。肉の世界に目が向けられている時には、気づくことが出来ません。しかし、肉的に頼みとしていたものが取り払われた時に、ようやく気付くのです。

 

  神は霊なる方です。霊なる方が用意される恵みは、目には見えないけれども、確かにあり、永遠のものです。永遠の財産です。

 

  この世の神(悪魔)が与える恵みは、この世のものです。この世の神に仕える者に喜んで、この世の富や誉れや栄光や財産を与えます。その代償として、その人の魂を奪います。死後の裁きがあることを知らないこの世の人々は、魂を捧げることに何のためらいもありません。

 

  神が彼らを目覚めさせるために、彼らの大切にしていたものを取り去られます。この世の神は、彼らの望みを聞き彼らの欲望を搔き立てながら、その魂を奪っていくのです。その魂を守ることはしません。子どもではないからです。奴隷なのです。奴隷が幸せになることを望む主人ではありません。自分の栄光のために、奴隷を働かせます。奴隷が苦しもうと呻こうと、そんなことは関係ありません。ただ主人のために黙って働くことを要求します。

 

  人を造ったまことの神、イエス・キリストの父は、憐れみの神です。イザヤは言います。

 

  「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたを憐れもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての人は。

 

  ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

 

  たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くのも、あなたの耳は後ろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く。」

 

  希望を失った荒野の中で、主は憐れもうと立ち上がられるのです。神は神に立ち返るのを待っておられます。荒野で、失望し、絶望の末、自らの命を失ってしまう人もいます。しかし、神は人を傷つけるために荒野に追いやったのではありません。絶望の中で、助けを求める心を与えるために、神に帰らせるために、その状況を許されたのです。

 

  神は助けを求める者を憐れみ、彼を包み、悔い改めの霊を注がれます。神は、御自分が造られた魂に誠実な方です。この世のものを追い求めて生きて来た人も、荒野で静まり、神を見出します。

 

  不思議なことです。人生がうまくいっていた時には気づかなかった、いのちの神を荒野で知るのです。そして、この神が自分を心配し、憐れんでくださり、すべてのものを失って惨めな自分を愛してくださる、真実の愛の神であることを知るのです。

 

  遠く離れ、イエスを嘲笑っていた者も、この神を知り、悔い改め、神に立ち返ります。この生ける神は、災いの時にともにおられ、泣き叫ぶ声を聞き、答えてくださる神です。人を造った、魂の父なのです。父は子どもを守られます。

 

  人を造らなかった神々は、滅びます。永遠に燃え盛る火の池に入ります。その神々と結ばれた人々も同じ運命を辿ります。しかし、人を造られた神は、永遠に生きる方です。いのちの神だからです。いのちの神に結ばれた人は、永遠のいのちを受け、神の御国に入り安息するのです。

 

  神が与える恵みは、霊的なものです。目に見えるものではありません。彼らの魂を生かし、喜ばせ、平安を与える、永遠の恵みなのです。彼らにとって、死は恐れるものではありません。彼らは、永遠のいのちを得るからです。

 

  人は、この世の祝福を望みます。永遠を知らないからです。しかし、永遠に生きておられる主は、永遠の恵み、永遠の祝福を用意しておられるのです。それは、この世のものに望みを失った時に、心の目に映し出される光です。

 

  肉の目には隠されていた恵みを見出し、受け取った者は、たとい、乏しいパンとわずかな水しかない生活の中でも絶望せずに、生かしてくださる神に感謝して、神を見続ける者となるのです。

 

  エレミヤは言います。

  「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

  おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。』」

 

  人に捨てられても、神は捨てません。

  人があきらめても、神はあきらめません。

  人の愛は失われても、神の愛は永遠の愛なのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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