ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人はみな放蕩息子

 

  神に造られた人は、神に敵対する悪魔の言葉を信じ、神のことば(御子)を退けて、父なる神から離れました。

 

  父なる神は、天地万物を造られた神です。永遠の昔から存在する神です。御子はこの神から生まれた、神のひとり子でした。人が造られる時、御子も父のかたわらにいて、ともに創造したのです。

 

  神が創造された人は、神に非常に良いと満足され、神に喜ばれるものでした。しかし、人は、悪魔にそそのかされて神から離れてしまいました。

 

  神の悪魔に対する怒りは激しく燃え上がり、悪魔の刑罰のために用意された火の池は燃え盛っています。そこは、闇であり、死であり、滅びです。草花や木々の植物も川のせせらぎも鳥のさえずりも飛び交う蝶も青く広がる大空も太陽もありません。

 

  愛や優しさや思いやりや安らぎや平和や安息は微塵もありません。反省や悔い改めや希望や光は存在しません。神に赦されない者の入る場所です。

 

  そこでは、常に争いと叫びと罵りと嘲りと裏切りが続き、怒りと憎しみと呪いと残虐に満ちています。そこに入る者の心は休まることがありません。これが永遠に繰り返される、終わりなき刑罰です。そこから外に出ることはありません。永遠に閉じ込められたままです。

 

  硫黄の臭いと悪臭に満ち、うじ虫がはい回っています。死者が意識を持ったまま入り、永遠に苦しみから解放されることはありません。

 

  悪魔に捕らえられた人もまた、悪魔とともに入ることになります。神の裁きのはかりは、一つです。悪魔も人も同じはかりで裁かれます。神にえこひいきはありません。

 

  神が造られた人は、創造主のもとに帰ることが正しいことなのです。父から離れたままの人は、父の赦しを受け取っていない者です。

 

  この世をさまよい、世に安らぎを見出せない人は、目に見えない神に出会うチャンスを秘めています。偽りを憎み、邪な事を悩みとする人は、聖なる神を見出す心があります。愛に傷つき、病む人は、神の救いの御手を求める真実な心を芽生えさせます。

 

  人の潜在意識のうちに、永遠を想う意識が置かれています。世の成功を求めたり、世の事で満足する者は、世の事で夢中です。しかし、立ち止まった時に、深く潜在意識にしまい込まれた不思議な感覚を呼び覚ますのです。

 

  人の意識は知らないのですが、その人の魂は知っています。父なる神のこと、創造主のことを。目に見えている世界は消えて行く空しいものであり、本当の実体は別にあることを捉えているのです。

 

  すべての人は、魂の父から離れた放蕩息子です。真実な自分の姿を掴むことの出来ない心許ない歩みをしています。この先どうなるのか、死んだらどうなるのか。帰るべき場所がわかりません。

 

  遥か昔に父の元を離れた人は、父の存在すら覚えていません。この世が自分の居るべき場所だと思います。魂の故郷を知って生まれて来る人はいません。

 

  父は、この地上に生れさせた時から、御自分のもとに帰って来ることを待っておられるのです。肉体の命を歩むうちに肉の歩みに失望して、神を見出すように計画されています。「子よ。帰れ」といつも、語り掛けておられます。しかし、神から遠く離れ、霊の目が閉じ耳が閉じている人は、それに気づきません。

 

  悪い世にあっても、生きる希望を見出す努力をする人はその扉を開けます。すると、自分は神に帰る存在であったことに気づくのです。父から遠く離れていたことを悔い改めます。

 

  魂の父、まことの霊の父のもとに帰ることを決断し、神に向きを変えると、なんと神の方から走り寄り、両手を広げて迎え入れてくださるのです。

 

  そして、追ってくる悪魔の手下どもに身代金(神の子羊イエスのキリストの血)を渡し、御自分のもとに帰って来た罪人を救って、永遠の火の池の滅びに下って行かないようにされるのです。

 

  神に言い逆らい放蕩していた息子が帰って来ると、父は喜び、彼に永遠のいのちを与えられます。ひとりの罪人が悔い改めるたびに、天では、神の御使い達に喜びが沸き起こるのです。

 

  また、帰って来た放蕩息子に神の国を相続させます。彼は、神の子羊イエス・キリストとともに、御使いを治める者とされるのです。

 

  人間が何者だというので、これを御心に留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

 

  御子イエスは、生贄の神の子羊として十字架にかかるために、肉体を持つ人の子として生まれてくださいました。父から遠く離れた放蕩息子を、父の元に取り戻すためでした。

 

  神に逆らう者達への神の怒りの火は、燃え盛っています。神の義は、罪を赦すことができません。罪を赦す方法として、御自身のひとり子を人の子として地に遣わし、神の子羊とされました。

 

  神の子羊イエスは、人々の罪の身変わりとして、生贄となられたのです。生贄の子羊イエスの死は、神の怒りをしずめました。子羊イエスの血は、罪を贖う唯一の贖いの血です。

 

  罪のない全き聖なる神の御子が、罪人の罪を贖い、罪を聖める、贖いの血となられました。キリストの血によって、父は罪人の罪を赦し、人に永遠のいのちを与え、神の子として神の国を相続させてくださるのです。

 

  人はみな放蕩息子でした。しかし、父の方から赦しの道を用意して下さったのです。放蕩息子が悔いて神に向きを変えるならば、神は、赦すことを決めておられ、罪人が帰って来るのを待っておられるのです。

 

  神のことば(神の御子)は人の子となられました。神のことばから離れ、悪魔の言葉に従ったアダムの子は、罪人として歩みました。しかし、人の子として地に来られた神の子羊イエス(神のことば)に信仰と愛で結ばれた罪人は赦されました。イエス・キリストを信じる者は、神のことばの中に入り、本来あるべき姿に回復されるのです。

 

  人の子が良い行いに歩むように、子羊イエスの血を用意して、滅びゆく罪人にいのちを与えて、神の栄光まで引き上げて下さるのです。

 

  信仰の結果である魂の救いを得た放蕩息子は、言葉に尽くすことが出来ない栄えに満ちた喜びと感謝に溢れ、恵みと平安が豊かにされるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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