ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

責めることのないイエス

 

  「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

 

  律法学者とパリサイ人は問い続けました。モーセに十戒が与えられた時、神はイスラエルを、神の民として任命されたのです。神の民は、神の祭司の民であり、世界の光となって、国々に全能の神を現し、神の良き訪れ(神が遣わされる救世主、キリストの福音)を知らせ、世界に平和をもたらす、聖なる民です。

 

  聖なる民の中に、不正は許されません。祭司や律法学者やパリサイ人達は、厳格に神の律法を守り、また、民に守るように指導する者でした。キリストだ、と言われているイエスは何と言うでしょうか。モーセの律法に従うでしょうか。それとも、モーセの律法の権威に逆らうのでしょうか。

 

  イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 

  イエスのことばは、モーセの律法に逆らうものではありませんでした。イスラエルを汚す罪人に石を投げることは知っておられます。しかし、この女だけではなく、すべての者が神の御前に罪ある者であることも知っておられました。

 

  地上にいる祭司ならば、彼らの訴えを受け入れたことでしょう。しかし、天から来られた大祭司イエスは、人の弱さも罪深さもご存じで、罪を抱える弱き器を憐れむ方です。人が律法を、完全に守ることが出来ないことも承知しておられます。律法では、人を完全にすることも救われることがないこともご存じです。

 

  罪から来る報酬は死です。肉の思いは神に対して反抗し、神の律法に服従することは出来ません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。肉の思いは死であり、肉にある者は神を喜ばせることができません。

 

  イエスは、罪の縄目に縛られ、どうすることも出来ない弱き人を救うために、この地上に来られたのです。罪の重荷に打ちひしがれる憐れな人を、罪の奴隷の苦しみから解放し、罪の悩みを取り除いて、感謝と喜び、希望を与えるために来られたのです。

 

  イエスは、神が天から遣わされた神の子羊でした。人に重くのしかかった罪の呪いを身変わって、生贄の子羊となられたのです。人々は、イエスを嘲りののしりました。十字架で、イエスは神に叫ばれました。

 

  「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」

 

  イエスは、人を罪に定めるために来られたのではありません。人は土の塵から造られているではありませんか。彼らは死ぬと、土に戻ります。土から取られたので、土にかえるのです。土の器に霊的な生き方は望めません。肉なる者は、肉の歩みをするのです。彼らは、肉の存在で肉の生き方をするのです。肉の存在が、肉を切り離すことは出来ません。

 

  霊なる神が人の子となって、地上に来て下さり、肉を処罰してくださったのです。肉はいのちを与えません。朽ちる肉は、死を待つばかりでした。

 

  人は、姦淫とか盗みとか殺人とか、人が犯した罪を見て、その罪を責め、裁きます。しかし、イエスは、罪を責めません。それは、肉なる者の姿なのです。罪を責めたからと言って、罪が止められるものではありません。罪の根は、根深いのです。

 

  罪を止めるには、肉が死ななければなりません。肉にあるうちは誰でも罪の性質を持っているのです。肉の思いは神に対して反抗するものです。肉は、神の律法に服従できないのです。

 

  イエスは罪を犯されませんでしたが、肉の誘惑は受けられました。悪魔の試みを受けて勝利されたのです。しかし、人には誘惑を退け続けるだけの強さはありません。それで、罪の呪いである死を身代わって下さったのです。イエスは、人の罪を負い、彼らの身代わりとして十字架にかかられたのです。

 

  イエスは、姦淫の現場で捕えられた女に言われた。「婦人よ。あなたを訴えたあの人達はどこにいますか。あなたを定める者はなかったのですか。」

 

  あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい、というイエスのことばを聞いた彼らは、年長者からひとりひとり出て行ったのです。誰も自分は罪を犯したことがない、と言う人はいませんでした。

 

  「誰もいません。」彼女が言うと、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われた。

 

  罪のない唯一のイエスも、彼女を罪に定めない、と宣言されたのです。「罪を犯したことはありません。私は正しい」とする者を、イエスは叱りつけられます。自分は罪を犯した者だ、と認める者に、イエスは赦しを宣言されるのです。

 

  ある時、私はある人の行いや態度に腹を立てて、一人の牧師に相談しました。「あの人は、こうでこうでこうだから間違っている。こうあるべきではありませんか!」すると、口を挟まないでずっと私の話を最後まで聞いておられたその牧師は、最後に一言言われました。「あんたがそうなったらええやん。」

 

  それは私を責める言葉でもなく、私に同意する言葉でもありません。神の知恵の言葉でした。私の心の訴えは取り下げられ、「アーメン」と心で唱えました。まるで、姦淫の女を訴えるパリサイ人や律法学者に言われた、イエスのことばのようでした。「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 

  人を責めている時は、自分は正しいと思っています。自分も神に赦されるべき弱い罪人であることをすっかり見落としています。人のふり見て我がふり直せ、と自分の行動を見つめ直すことにまで及びません。

 

  責めること、訴えることは肉の性質です。神がくださる御霊の思いは、いのちと平安です。御使いのかしらミカエルは悪魔と論じ、言い争った時、あえて相手をののしり、裁くようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように」と言った、と聖書にあります。

 

  いのちと平安なる神の霊は、責めることがありません。イエスは責められません。責めるのは、鼻から息をする人間なのです。

 

  人はただ、罪を悔い改め、罪を責めずに赦してくださるイエスの愛に慰めと安らぎを受けて、主に感謝し、神にへりくだるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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