ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

原罪の赦しと救い

 

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。

 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。

 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。

 私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:15,17-24)

 

 犯罪者は、罪を償うために刑務所に入れられます。犯罪者と言っても、私たちと同じ普通の生活をしている間に過ちを犯す人もいれば、様々な要因が積み重なって、怒りと憎しみや恨みが増幅し、その感情に突き動かされた人もいます。

 

 同じ状況になったら多くの人も同じことをしてしまうかもしれないという、ごく身近な悲しい犯罪もあります。

 

 刑務所に入る前は聖書やキリスト教会に縁が無かった人も、罪の重荷を負って反省する中で、刑務所教誨師によってイエス・キリストの救いを知ることもあります。

 

 彼らは理性では一線を超えるのをこらえることができました。しかし、感情が理性を上回った時、自分のからだが動いたのです。自分のしてしまったことに愕然とします。自分の意識の外に自分を支配するものがいて、それにコントロールされたかのようです。無責任に聞こえますが、そのような感覚の人もいると思います。

 

 そのような人は、ローマ書7章のことばが身に沁みます。パウロが自分の気持ちを代弁してくれているかのようです。

 

 刑務所に入って、自分のうちに隠された原罪に向き合うこととなったのです。普通に暮らしている人に、罪と言うと、刑務所に入れられるような犯罪を連想します。しかし、聖書でいう罪とは、だれもが持っている「原罪」のことをいうのです。

 

 原罪とは、罪を犯す根源にあるものです。私は罪を犯したことがない、と思っている人の中にもしっかりとある罪です。生まれ持っての罪です。人は皆、この罪を犯す性質である「原罪」をもって生まれています。

 

 ほとんどの人は、この原罪を意識していません。法を犯す明らかとなった罪を罪として認識しているからです。自分の中にも犯罪を犯すかもしれない要素があると思う人は、原罪をとらえている人です。

 

 聖書でいう罪の贖いとは、この罪を犯す性質の「原罪」の贖いを言うのです。聖書の神の法を犯すことが、神の御前での罪です。人には知られなくても、神には隠すことができません。

 

 人殺しだけではありません。盗むことだけではありません。親不孝も、不倫や姦淫も、嘘をつくことも、他人に対して偽りの証言をすることも、他人のものを欲しがることも、裁かれるべき罪なのです。心に思い描く悪い感情も罪です。神の御前では、人間の誰一人罪のない者はいません。すべての人が罪人なのです。

 

 刑務所に入って、自分の罪と向き合い、自分の心のうちにある抑えようの無かった憤怒や嫉妬の存在に打ちのめされるのです。パウロは、「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。」と言っています。

 

 自分の中に、自分を悪に陥れようとするものが存在しているという、原理(根本的で普遍的な法則)があると言うのです。原罪は原理なのです。誰にも変えられません。すべての人の抱える矛盾です。

 

 人のからだの中には異なった律法があるのです。心の律法は神にへりくだる霊的な律法です。正しく生きようとする理性です。しかし、からだの中にある罪の律法のとりこにする異なった律法が、心の律法に対して戦いをいどんでいるのです。これが、人のうちに悪が宿っていると言う原理です。

 

 人は、ある時は罪の律法(怒りや憎しみや妬みや自己弁護や嘘等)のとりこにされます。心の中でのことで、誰にも迷惑をかけているわけではないと弁解します。しかし、この罪は刑務所に入る犯罪に数えられなくても、神の御前では罪なのです。この罪を償い赦されなければ、神の御前に立つことができないのです。

 

 この罪の根である原罪を償うことはできるでしょうか。人にはできません。何故なら、人殺しをしなくても両親を敬わないならば罪人です。盗みをしなくても他人のものを欲しいと思っただけでも罪人なのです。笑顔で友好を表しても、心が蔑みで満ちているならば神は受け入れられません。償うとは、犯した罪に対して、金品や行為で埋め合わせをしたり、弁償することです。あらゆる罪に一つ一つ償っても、新しい罪が浮上します。一生、罪の償いをし続けても終わりがないのです。

 

 人は、すでに罪を犯した者だからです。初めの人アダムが神の命令に背き、善悪を知る知識の木の実を食べた人類は、神ではなく、善悪を知る知識に支配される者であるからです。

 

 善悪を知る知識の木の実は、死をもたらしました。人は生まれたときから、罪と死に支配される者なのです。これが原理です。

 

 「原罪」の存在に気がついた人は、闇の中でうめきます。「私は、本当にみじめな人間です。誰がこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

 

 自分自身では、自分のうちに宿る悪の支配、滅びと死の結末から逃れることができません。自分のからだを打ち叩いて心の律法に従わせようと努力したり、修行を積んでもかないません。自分ではない、誰かに助けを求めます。その果てない望みを、目に見える者では無く、目に見えないものの中に探し求めます。

 

 目に見えない神は、人の目に見える肉体の姿で、神の御子を遣わしてくださいました。神の御子は、原罪を贖う人の子です。誰も償うことのできなかった原罪の贖いと赦しのために、罪の生贄の子羊として、イスラエルに遣わされたのです。

 

 神の子羊イエスは、人類の中に宿った悪(神に逆らう罪の律法)を抱える罪人の身代わりとなって、贖いの子羊の血を流されました。贖いの血は、すべての罪を贖い、神の法を犯す原罪、死と悪に捕えられている原理から解放してくださったのです。

 

 生まれながらの死の原理は、神の御子イエスの十字架の贖いの血によって打ち砕かれました。神は、神の子羊イエスの贖いの血をもって、人の罪を赦されたのです。死の原理から、いのちの原理に移し変えられたのです。

 

 パウロは言います。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:25)イエス・キリストによって罪赦された後でも、肉のからだは罪を要求します。

 

 しかし、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはありません。何故なら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、解放したからです。

 

 それで、肉によって無力となりました。神の御子を肉において処罰されたので、キリスト・イエスにある者は、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む者とされたのです。

 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは神に対して反抗するものであり、死です。それは神の律法に服従できないのです。御霊による思いは、神への従順といのちと平安です。

 

 キリストの御霊を受けて、いのちの御霊の原理に入った者は、原罪の赦しを受けた者であり、永遠のいのちを受ける神の子です。彼らは、裁き主に裁かれることがありません。