ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

携挙を待ち望む

 

 聖霊を歓迎する教会では、キリストが空中まで迎えに来てくれて、信者を生きたまま空中に引き上げ、世から救い出されるという、携挙を信じる人がいます。しかし、聖霊のバプテスマを教えない教会では、携挙という言葉を聞いたこともないようです。

 

 携挙を信じる人は、ノアの時代、神を畏れるノアが神のお告げに従って箱舟を造り、世の裁きから逃れ、大洪水から救い出された話や、神がソドムの町を滅ぼされる時、御使いの話を信じたロトが御使いに促されて町を出て高い所に逃げ延びた頃に、天からの火でソドムの町が焼き滅ぼされた話から、神は神を信じる人を神を侮る者達と一緒に滅ぼす事はない、必ず、世と区別して世から救い出してくださると信じているのです。

 

 携挙を信じる人と携挙を待ち望む人がいます。同じように携挙を信じていますが、教会で教えられているからとか、皆が信じているから、或いはクリスチャンだから携挙されると思っている人もいます。携挙を信じて待ち望む人の中には、クリスチャン全員が携挙されるのではなく、選ばれた人が携挙に与かるのだと思う人もいます。

 

 私は携挙を待ち望む者ですが、携挙は御霊が引き上げられることでもあると思っています。聖書に「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。(第二テサロニケ2:7)」とあります。

 

 引き止める者とは、御霊です。イエスの昇天後に、弟子達に聖霊が注がれており、地には御霊がおられます。神は、神が地上に遣わされていた、イエスを信じる者を助け導く御霊を引き上げられるのです。その時、御霊を宿す聖霊の宮である信者達が生きたまま一瞬で霊のからだに変わり、主のもとに引き上げられるのです。

 

 御霊が居る世は、いのちがありました。愛がありました。みことばの真理を知る知恵がありました。しかし、御霊が引き上げられると、御霊の力で執り成していた聖徒達も世からいなくなります。御霊のいない世界になるのです。いのちの光が失われます。闇で覆われます。

 

 「その時になると、不法の人が現れます」と聖書にあります。隠されていた闇の力、獣の正体が明らかにされて行くのです。携挙の時までは、はっきりとされていなかった闇の獣が姿を現します。

 

 携挙される人は、不法の秘密を肉眼で見る事なく、主のみもとに上がるのです。携挙を待ち望む人は、御霊によって不法の者から逃れるのです。不法の者が支配する世から救い出されるのです。ノアが箱舟に入ってから雨が降り始めたように、また、ロトが御使いと一緒にソドムの町から逃げ出した後にソドムの町に火が降ったように、聖徒と御霊が地上から取りさられた後に、不法の者が現れ闇の力で支配し、世を破壊するのです。

 

 携挙を待ち望む人々は、御霊から示されています。すべてのクリスチャンが引き上げられるのではないことを。神に忠実なクリスチャン、神の御霊に聞き従う信仰によって歩むクリスチャンが引き上げられるのです。

 

 邪悪な世にあっても神を畏れ、神の声を聞き、神の声に忠実に従ったノアや、暴虐に満ちたソドムの町の罪に加わらず、心を痛め正しく歩んだロトが、滅びから救われたようにです。

 

 神がみもとに集められる教会は地上の教会ではありません。御霊の教会です。御霊によって生まれた教会です。七つの御霊の教会です。そのうち、生きたまま携挙される教会は、フィラデルフィア教会だけなのです。

 

 他は、殉教の死によって肉体に死に、死から復活して引き上げられる教会です。死を通らなければなりません。イエス・キリストの御名のために殺されるのです。人は自分の命の危険を感じると命を守ろうとするものです。その時、死をも恐れず、イエス・キリストへの信仰を持ち続ける事が出来るかが問われます。イエス・キリストの御名(イエス・キリストを信じる信仰)を否めば、命は助かるのです。殺されないで済むのです。

 

 生きたまま携挙される何て事は起こらないと信じている人は、フィラデルフィア教会に属していない人だからだと思います。

 

 生きたままであろうと、死を通してであろうと、主のみもとに集められることが永遠のいのちの証です。御霊の教会に属することが、救いなのです。最後の裁きが過ぎ越されるのです。

 

 携挙について、神に祈り備えましょう。生きたまま携挙されるという事は、生きたまま肉の死を体験する事だと思います。肉が死んでいるので、肉体の死を味わう事無く、生きたまま引き上げられるのだと思います。

 

 肉が死ぬとは、自分の願いや思いや考えを優先するのではなく、御霊に導かれるまま御霊に従うこと、自分の人生を神に明け渡し、神の栄光を仰ぎ見て、神のために生きることだと思います。生きながらの殉教者です。自分の肉や欲に死んで、神のために自分を献げて生きる人です。

 

 生きたまま携挙される人も、殉教者等死を通って復活する人も信仰を守り通すことができるように祈り備える必要があります。