ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人の義 神の義

 

 神を信じたり、何か信念を持つ人は、自分の考えが正しいと思います。それが、信じるということでもあります。

 

 人の義は、想定の中にあります。想定外の事柄が起こると納得がいかないと言って、神に抗議します。神はこうあるべきだ、という思いではかっているからです。意識せず、自分が謀(はかりごと)の主になっているのです。それに気づくこともありません。

 

 何故、神は?と神のせいにします。自分が正しくて、神に落ち度があるように振舞っているのです。これは、古い人、生まれつきのままの姿です。神に従うしもべだと言いながら、神と同等か或いは神の上に立つ悪魔の心が支配します。

 

 主を信じたからと言って、完全な者にされたわけではなく、完全な者になる道の途上の者だからです。人は皆、アダムとエバの子孫です。善悪の知識の木の実を食べた罪人の肉であり、骨です。生まれた時から、自分の意思を持ち、自分中心の感情と自分の欲望のために知性を使います。自分の意思が通るために泣き叫び、親に逆らいます。人が生まれ持つ力です。生まれた時から、個性を持っています。

 

 一人一人が違う性格を持っています。同じ母親から生まれ出た兄弟であっても、似てないことが多いです。幼子は純真で疑いがないと言う事も言えますが、自我は強いです。これが、肉体を持って生まれた人の特徴で、不思議なことではありません。

 

 これを神の子に造り変えられるのだから、相当辛い苦しみを通らなければなりません。整えは生半可なものではありません。舗装されていない道に落ちている石ころを叩いて割って磨いて、ダイヤモンドにしてくれるのです。ダイヤの成分の無いただの石ころに、聖霊がダイヤを創造されるのです。人の思いつく化学変化の外の働きです。人の考え出す化学式は通用しません。石をパンに変えることのできる神です。神に不可能なことはありません。

 

 神の義を求めよと言われて、「はい。私は神を求めています」と思います。でも、神の義は、神が正しいと常に神に降参することでもあります。それなのに、思いがけない事が起こると、神のことは忘れて、おかしいと考えます。あってはならないと、状況を受け入れることが困難です。神の知らないところで起こり、自分がこの苦難に直面していると思うのです。

 

 神のいのちは、この世の常識や人の許容量を超えて働かれます。古い人を破くためです。古いからだの意識を取り除き、新しい体の意識を入れる器とするためです。頑なな心を砕くためです。砕いて硬い石の心を柔らかい新しい心に造り変えるためです。

 

 人の義はうめき、自分を主張します。神の義は、人の義(言い分)を空しいものとされます。人は、神に自分の義を踏みにじられたように感じて、顔を背けます。神は人の義を必要とはされません。人の義はその人自身の誇りであって、神の栄光の光を阻むものです。神は苦しめるために困難を与えているのではなく、苦しんで神を求め神にへりくだる光の子に造り変えるためです。それは、永遠の誉れです。

 

 この整えを受けるのに、神は人に感謝を学ばされます。すべてのことに感謝しなさい、という学びです。困難の中で感謝するなんて、生まれつきの人間には出来ません。でも、神を失いたくないと神にすがる人は、涙ながらも神に留まります。神の愛も憐れみも素直に感じられないその人を神は抱き、時が来たら、その人が御霊の思いを理解するように変えられるのです。

 

 困難をくぐり抜けた人は、過去を振り返って、今の私があるのはあの苦しみのお陰です、と神に感謝し、新しい自分に出会うのです。自分の思いではなく、神御自身に信頼することを学んでいきます。苦しみの中で、神を認める人へと信仰が強められていきます。

 

 神が正しい、と神にへりくだることは、神の義の中にいることです。神の義の中に留まる人を、神は義とされるのです。神の義を学ぶのには、多くの時間がかかります。でも、この義は、アブラハムが義とされた信仰の義です。自分の努力や熱心や正しさではなく、自分自身の義を捨て、神を信じること、神への信仰こそが、神が認める義人なのです。自分の義は、神にとって不義なのです。信仰の道を泥沼にしてしまいます。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べて罪人となった人は、悪魔の奴隷となりました。キリストの血によって悪魔から買い戻された魂は、御霊に聞き、御霊の判断に従う歩みを通して、悪魔の知識に死んで、聖霊の知識で甦るのです。神の知識は内なる人を強め、人は新しい創造を受けるのです。

 

 詩編45:8,9に書いています。

 「神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座についておられる。国々の民の尊き者達は、アブラハムの神の民として集められた。」

 

 神の義にへりくだる者が尊き者です。民族や国の違いはありません。すべての国々の上に立ち、聖なる王座から統べ治めておられる神が、すべての国々の中から、アブラハムの信仰を受け継ぐ尊い義人を、神の民として集められるのです。

 

 信仰の民の初めであるアブラハムの信仰、神を信じる信仰によって、神の民は完成するのです。ユダヤ人も異邦人もありません。神の仰せられる事、神がなさる事にへりくだり神を義とする魂、神のされることは義しいとする魂は、永遠に輝きます。