ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰とは見えないものを確信するもの

 

 「わたし(イエス・キリスト)の味方でない者はわたし(神のひとり子)に逆らう者であり、わたし(主キリスト)とともに(神の子どもを)集めない者は散らす者(神の国の働きを妨げる者)です。

 だから、わたし(イエス)はあなたがた(イエスの弟子たち)に言います。人はどんな罪も冒瀆(イエス・キリストやイエスの弟子たちを冒瀆する)も赦していただけます。しかし、聖霊(真理の御霊)に逆らう冒瀆は赦されません。

 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

 まむしのすえたち。(神が遣わされた主キリストを信じずに、真理の御霊に逆らう人々。)おまえたち悪い者(真理の御霊に逆らい、また、人々をも真理〈聖霊〉に逆らわせる教師たち)に、どうしてよいことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。(口から出す言葉によって、その人の心のうちにあるものがわかります。)

 良い人は、良い倉(神にへりくだった良い心)から良い物(人々を慰め信仰を建て上げる生かす言葉)を取り出し、悪い人は、悪い倉(神に逆らう邪悪な心)から悪い物(人々の思いを汚し、信仰を握りつぶす悪い言葉)を取り出すものです。

 わたし(イエス・キリスト)はあなたがた(イエスの弟子たち)に、こう言いましょう。人はその口にするあらゆる無駄(無益)な言葉について、裁きの日には(神に)申し開きをしなければなりません。

 あなたがた(神の民)が正しい(神の国に入るのにふさわしい者)とされるのは、あなた(神を信じる人)の言葉によるのであり、罪に定められる(神の子どもにふさわしくないとされる)のも、あなたの言葉によるのです。」(マタイ12:30-37)

 

 イエスはイスラエルに遣わされ、ユダヤ人たちの間を歩まれました。彼ら(ユダヤ人)は、神の選びの民イスラエルです。ユダヤ人の教師たちは、神が遣わされる約束のキリスト(救い主)に聞き従う民とするために、ユダヤ人たちに聖書のみことばを教えなければなりません。

 ユダヤ民族は、まことの生ける神(全知全能の創造主、唯一の神)に聞き従う民として、神によって造られました。生まれながらの、主の民(神を信じる信仰者)です。ユダヤ人は神への信仰を持つ人として生まれ、神は彼ら(ユダヤ人たち)を、神の御心に聞き従う神の民とされる御計画です。

 ユダヤ人たちは、全世界に出て行って、全世界の人々(すべての民族、すべての国々、すべての言語の人々)に、創造主であり裁き主であられるまことの神がイスラエルに遣わされた救世主(世の罪を取り除き、死と裁きから救い出してくださるメシア)キリストの福音を宣べ伝えて、彼らを神に立ち返らせて、世界を救う働きを担う民です。

 

 しかし、ユダヤ人の教師たちは、神が遣わされた救世主イエス・キリストを信じないばかりか、信じるユダヤ人たちを迫害してユダヤ人たちから真理(イエス・キリストへの信仰)を取り上げて、ユダヤ人たちの御救いを妨げる者でした。

 

 神への信仰が置かれているはずのユダヤ人の教師に何があったのでしょうか。彼らの信仰はどこにあるのでしょうか。

 律法を守ることを信仰としていた教師たちの霊は、目に見えるものを信じるという覆いが掛けられており、真理の光が見えなくなり、本来の信仰の機能を失っていたのです。

 

 信仰とは、目に見えないものを確信させるものです。

 聖書は言っています。

 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)

 

 信仰は、望んでいる事柄を保証し確信させる、確実な実体です。目に見えるようにしてある偽りのない真の姿です。神の御子イエス・キリストが与えられた約束が、私たちの望んでいる事柄です。

 神の子羊イエスを信じる者は、子羊イエスを遣わされた父なる神を信じる者です。父はその者(子羊イエスを信じる者)を愛し、神の子どもとされる特権をお与えになります。神は、神の子どもとされる特権を得た人々に、約束の聖霊(真理の御霊)を授けられます。真理の御霊が、神の子どもにふさわしい姿に造り変え、いのちの道へと導かれるからです。

 神は、イエスにお授けになられたことばどおり、真理の御霊に導かれて神の子ども(新生した新しい創造)とされる者たちに、永遠のいのちを得させ、神の御子イエス・キリストのおられる所(天の御国)に入れてくださるのです。

 

 イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストのことばを信じます。そして、イエス・キリストのことばに望みを置きます。彼らのうちに、御霊の信仰が置かれているからです。彼らは、信仰によって悟ります。

 

 「信仰によって、私たち(イエスを信じる弟子たち)は、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(へブル11:3)

 

 神の御子イエスへの信仰を持つ者にとって、それは信じることではなく、悟ることなのです。初めからある真実を事実の事柄として悟るのです。信仰は実体を明確に悟らせます。かたちがなく、ふわふわと当てのない幻を信じているのではありません。

 

 キリスト信者は、真理の御霊によって神を体験し、神の本質に触れ、神を知るのです。また、神のことばの力を経験します。癒しが起こり、慰められ、平安を得ます。神がともにおられることを感じ取ります。神に覚えられ、神に愛されていることがわかり、神は、現実のお方であることを確信します。

 信仰者にとって、神こそが真実であり、現実なのです。神を否定することはできません。なぜならば、神は日々ともにいてくださるお方だからです。目に見えない神こそが、信仰者にとって、現実であり、信ずべき存在です。目に見えないから、肉の人々の間では、信じる、信じないの話となりますが、御霊によって生まれた霊の人々にとっては、目に見えるもののほうが不確かなものであり、当てにならないものなのです。

 

 聖書を読み込むことによって、神のことばはことごとく成就し信ずべきものであることを悟り、御霊の信仰の置かれた人の信仰は、いよいよ確信へと成長させられます。

 

 「初めからあったもの、私たち(使徒たち)が聞いたもの(イエスのことば)、じっと見、また手でさわったもの(肉体を持って来られた神のひとり子イエス)、すなわち、いのちのことば(真理である神の御子)について、

 ―この(永遠の)いのちが(イスラエルに)現われ、私たち(イエスの弟子たち)はそれを見たので、そのあかしをし、あなたがた(イエスを信じる人々)にこの永遠のいのち(神のひとり子イエス)を伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのち(神の御子イエス・キリスト)です。―

 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがた(イエスを信じる人々)にも伝えるのは、あなたがたも私たち(使徒たち)と交わりを持つように(仲間と)なるためです。私たちの交わり(イエスとともに実際に過ごした生きた証人である使徒たちの体験)とは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(神の御子イエスを通して、目に見えない神〈父なる神〉との交わりが確かにありました。使徒たちは、彼ら自身の目でそれを見、それを聞き、体験したのです。)

 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの(信じる人々の信仰の)喜びが全きもの(疑いようのない事実であり、確信)となるためです。」(ヨハネ第一1:1-4)

 

 モーセの書が朗読されるときはいつでも、心に覆いが掛かっているユダヤ人でも、主(罪の贖いを成し遂げられた神の子羊イエス)に向くなら、その覆いは取り除かれます。(毒蛇に噛まれたユダヤ人が青銅の蛇を仰いで生きたのと同じように、信仰によって生きるのです。)

 

 主は御霊です。人の子イエスの姿で来られた真理のことばは、イエスの姿を見ることができない現在では、真理の御霊として、信じる私たちのうちに住まわってくださいます。主(神)は、御霊として、私たちのところにおられます。

 神は、もうひとりの助け主、真理の御霊(キリストの御霊)を、信じる私たちに授けてくださったからです。そして、主の御霊のあるところには自由があります。主の御霊は、奴隷の霊ではありません。神の子どもとしてくださるキリストの御霊です。

 

 「私たちはみな、顔の覆いを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。

 これはまさに、御霊なる主の働きです。」(コリント第二3:18)

 

 私たちのうちにおられる御霊は、御霊の信仰(イエス・キリストご自身の信仰)によって、私たちの信仰を確信へと引き上げ、私たちに神の御子キリストの信仰(神の子どもとしての信仰)をかたち造ってくださるのです。