ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰がなくては神に喜ばれない

 

 「信仰がなくては、神に喜ばれません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)

 

 イエス・キリストを愛していても、信仰がなければ、神にとって知らない人ということになります。

 

 ノアも、アブラハムも、信仰によって義とされました。それで、ノアは神が大洪水によって地にあるものを滅ぼされたときに、箱舟に入り水から救い出されました。また、アブラハムは、信仰によって神の祝福を受け取り、神と契約を結ぶ者として選ばれました。

 

 彼らは神を信じる信仰によって、義とされたのです。

 アブラハムの子孫は、アブラハムの信仰を受け継ぐ者でした。アブラハムの孫ヤコブから生まれたユダヤ民族は、アブラハムの信仰を受け継ぐ民族として神が造られました。そして、神はユダヤ民族と契約を結び、ユダヤ民族は神の掟を持つ神の民イスラエルとなったのです。

 

 ユダヤ民族には、神が選ばれたレビ族があり、彼らのうちから神に仕える祭司が立てられました。祭司は、イスラエルを神に仕える国民として導かなければなりません。小さい者や弱い者や愚かな者にも、神の掟を守るように教えなければなりません。

 

 アブラハム、イサク、ヤコブの信仰の場合、神と個人的に交わり、神からことばを受け取っていました。

 しかし、イスラエルにおいては、神がお立てになった祭司が民に、神と神に仕えることを教えます。また、神がお立てになった預言者が神のことばを与えます。民族という群れの信仰となると、理解する者もいれば理解できない者もいます。

 

 イスラエルは、モーセが与えた神の律法を神と思い、律法を守ることが神に受け入れられ、神に繋がることのように思い、律法が信仰の代わりとなってしまいました。

 

 神が望まれる信仰とは、霊的なものです。アブラハムやイサクやヤコブと語らった生きた交わりの神です。しかし、イスラエルは、生ける霊なる神を見ずして、目の前にある文字の律法を尊ぶのです。

 それで、いつの間にか、神がお与えになった律法を、モーセが与えたかのようにモーセを尊ぶようになりました。アダムが蛇の言葉に耳を傾けて神のことばから外れたように、イスラエルは、神の律法を民に語ったモーセに信仰を置いて、律法をお与えになりイスラエルと契約を結ばれた神への霊的信仰から外れてしまいました。

 

 イスラエルはモーセの律法を神の義と考え、神に受け入れられることだと理解しました。しかし、神は、信仰によるものを義とされる方です。

 イスラエルは、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいます。聖書の預言の成就とまことの神の都です。その都を設計し建設されるのは神御自身です。イスラエルは信仰によってそれを得るのです。それは、信仰の父アブラハムの信仰から始まった約束です。

 

 律法が信仰に取って代わったイスラエルは、生ける神の御計画のために役に立たない的外れなものとなっています。

 

 神の用意された信仰の道から外れてしまったイスラエルは、神が遣わされた神の子羊イエスを、神の御子キリストとして信じることができませんでした。

 神が預言者イザヤを通して語られた預言が成就したのです。

 「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」(イザヤ6:9)

 神は、生ける神の信仰から外れたイスラエルの民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざし、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、神にいやされることのないために、そう命じられました。

 

 生きておられる霊なるまことの神をないがしろにし、偶像の神々を拝むようにイスラエルの神を拝む者を神は怒られます。アブラハムの持っていた信仰を持たないイスラエルに、神は不信仰を責められます。

 

 イスラエルは、不信仰のために、神のことばを聞く霊の耳を失いました。神の栄光を見る霊の目を失いました。それで、神がイスラエルに約束しておられた栄光の王ダビデの子(神の御子イエス)がイスラエルに遣わされてユダヤ人の間を歩まれたのに、イスラエルはイエスを信じることができませんでした。

 

 イスラエルの神がイスラエルに遣わされた神のひとり子キリストを信じることができないイスラエルは、イスラエルの神をも知らないのです。

 

 神は霊なる方です。霊とまことによって礼拝しない者には隠されています。神の御子キリストは、心が覆われ思いの鈍くなったユダヤ人たちに、霊なる神を示されました。神がお定めになったユダヤ人たちは、イエスのされる奇跡や不思議やしるし、神のことばによって神の栄光を見、イエスを信じました。

 

 肉なる性質は、御霊(神の霊)のものを拒みます。心の鈍くなったイスラエルは、肉の性質のままで神を知っていると自負していたのです。肉で理解できないものを、偽りと判断しました。そして、神から来られた真理(神の御子イエス)を偽り者としたのです。

 

 神の御子イエスは神の御心を成し遂げ、死から復活した栄光のからだで父のみもとに帰られました。そして、イエスを聖なるキリストと信じた者に、彼らを導くもうひとりの助け主(真理の御霊)を授けられます。

 

 人は、キリストの御霊によらなければ、真理を知ることができません。肉なる者に、霊的な信仰を産むことはできません。信仰を持ったかと思うとすぐに鳥(悪魔)が来て食べてしまいます。

 

 ノアやアブラハムのように神の心にかなう正しい者、神とともに歩む者はいません。ノアやアブラハムは、その信仰によって義とされたのです。霊なる神を信じる信仰は、聖なる神を知る者のうちにあるのです。

 

 聖なる神を知る者は、聖なる生き方をする者です。しかし、人は肉であって、聖なる生き方を持続する者はいません。いつも肉の思いと戦っているのです。

 

 肉の弱さを知るイエス・キリストは、キリストを信じる者に、キリストの御霊を授けられます。御霊は真理(神)であり、真理を教え正しい道に導いてくださいます。御霊はいのちから出て、いのちへと導いてくださるのです。

 

 キリスト者の信仰は、キリストの御霊が与えるものです。

 「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(コリント一12:3)と聖書にあります。

 霊なる神を信じる信仰は、霊なる御霊によらなければ持つことができません。肉なる者に霊なる神はわからないのです。

 

 私たちの信仰は私たちから出たものではなくて、神が授けてくださる御霊によるのです。御霊を持たなければ、信仰は長続きしません。信じていても、真理がぼんやりしているからです。

 

 真理の御霊は、私たちにイエスのことばを思い起こさせ、真理を教え、神の知識と知恵を与えてくださるのです。私たちは、御霊によって神に信頼することを学び、信仰が育てられて、神に喜ばれる信仰がかたち造られていくのです。

 

 神の喜ばれる信仰は、私たちのうちにおられる御霊のうちにあるのです。

 御霊は主イエスを否みません。御霊は神に逆らいません。御霊は神と一つです。神の栄光を望まれる霊です。神を信じていのちを保つ霊なのです。

 

 御霊に聞き従う信仰こそ、神に喜ばれる信仰です。

 「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)