ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

魂の飼い主

 

 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。

 私の敵の前で、あなたは私のために食事を調え、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、溢れています。

 まことに、私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩編23章)

 

 魂の牧者である主は、神の子羊イエスとして、地上に来られました。子羊イエスは、自分を肥やしているイスラエルの牧者たちの実態をご覧になられ、また、ご自身苦しめられました。

 

 牧者は羊を養わなければならないのに、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気の者を癒さず、傷ついた者を包まず、迷い出た者を連れ戻さず、失われた者を捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配している。羊たちは、牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣の餌食となっている。

 

 神である主は仰せられます。「わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。」

 

 イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らを可哀そうに思われた。

 

 神である主は仰せられます。

 「見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。わたしは良い牧場で彼らを養う。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる。わたしは失われた者を捜し、迷い出た者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病気の者を力づける。

 肥えた者と強い者が脇腹と肩で押しのけ、その角ですべての弱い者を突き倒し、ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度と餌食とならないようにする。

 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。」

 

 神が誓われたように、ダビデの子イエス・キリストが、神の羊の牧者となられ、神の民を養われます。

 

 神の子羊として世に来られた方(イエス・キリスト)が、天から遣わされた魂の飼い主でした。地上で子羊として歩まれた神の御子イエスは、魂の牧者です。

 

 イエスは言われます。

 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

 わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしの羊は、わたしの声に従います。羊は、わたしの声を知っているので、わたしについて来ます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

 

 イエスはダビデの子と呼ばれているのに、ダビデは、受肉前のイエスを「私の主」と呼んでいます。ダビデは、全能の神とともにおられるイスラエルの神、主を知っていました。神の子羊イエスこそ、アブラハムの主、ダビデの主だったのです。

 

 ダビデは、主が魂の飼い主であることを知っていました。主が良い牧者であることを知っていました。主は、ダビデの羊飼いだったのです。

 

 正しくは、主がすべての魂の飼い主ですが、人間はそれぞれ好き勝手に自分の牧者をもっています。主を求めないで、自分に都合の良いものに従っているのです。

 

 魂の飼い主は、まことの羊飼いです。魂を生んだ方です。それぞれの魂の必要をよく知る造り主なのです。ひとりひとりの魂を御存じです。造り主は、誰よりも魂が健やかであることを願い、完全な姿にすることのできるお方です。

 

 造り主である魂の飼い主とともにあるならば、欠けは満たされ乏しいことがありません。主は失われた者を捜し、迷い出た者を連れ戻し、荒地にさまよう魂を優しく導き、傷ついたものを包み、病気の者を力づけ、緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。

 

 主は魂を生き返らせます。どの民族、どの国の人でも、また、異教の神々に従っていた人の魂さえも、イエス・キリストの御名によって義とし、神の御国に入る義の道に導かれます。

 

 イエス・キリストによって生きる魂は、死の陰の谷を歩くことがあっても、死の道を歩んでいるという恐怖を持たなくてよいのです。何故なら、それは、羊飼いの鞭であり、正しい道に導く杖であることを知っているのです。魂の飼い主は、どんな状況にあってもともにおられます。

 

 羊飼いの懲らしめは、永遠の安息に導きます。羊飼いの鞭も杖も、魂を安全に導くよいものです。魂は羊飼いの愛の鞭に慰められます。主を知る者はわざわいを恐れません。平安を与える計画を持ち、将来と希望を与える魂の飼い主がともにおられることを知っているからです。

 

 魂の飼い主は、魂を滅ぼす敵の前で、主イエス・キリストによる神との和解を宣言し、その魂に勝利の油を注がれ、勝利の祝杯を満たされます。すでに勝敗はついているのです。

 

 真実なる主、魂の飼い主なるイエスの慈しみと恵みは、牧者(イエス・キリスト)のもとに帰った魂とともにあります。それらの魂は、ダビデとともに歌います。

「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

 

「主イエス・キリストは、自分から十字架の上で、人々の罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです。

 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分の魂の牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロⅠ 2:24,25)