ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

事実と信仰

 

 神が永遠の昔から存在しておられ、天地万物を造られたというのが、事実です。この事は、信仰ではなく、本当の事です。

 

 最初の人アダムは、自分が神に造られた存在であることを知っていました。信じていたのではなく、知っていたのです。アダムは、自分の眠っている間に、自分のあばら骨から造られたエバを見て、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と言いました。

 

 アダムは、神が自分の身体の一部であるあばら骨から女を造られたのを知っていました。信じたのではなく、事実として受けたのです。今までアダムひとりしかいなかったのに、他の生き物とは違うかたちの女を見て確認しています。

 

 アダムに似ているけれども、少し違います。顔に眉や目や鼻や口があり、過去の横に耳がついており、首の下に胸と両腕と腹と腿と脛とがある。二本の足で立ち、言葉を話す、自分と同じ種類の女です。

 

 アダムは、エバを見て自分の一部であることを知っていました。子どもを産んだ母親の胸に生まれたばかりの赤ん坊をのせた時、「この子が私の子どもであることを信じます。」とは言いません。自分から取り上げられた子どもを我が子として慈しみます。自分の子どもであることを知っているからです。事実を受け入れているのです。

 

 神がおられる事と、人が神によって造られた事は事実でした。アダムもエバも事実を見ていたのです。

 

 アダムとエバがエデンの園から追放されると、見ていた事実が見えないものとなりました。目の前にあるものは、エデンの園で見ていたものとは違います。神を見ることも、神の声を聞くことも出来なくなると、神の存在は事実であるのに、自分の記憶の中で確認することになります。当たり前の事実であった事が、説明できないものとなりました。

 

 地上の人は、神を見ることができません。神の存在を確信させるものが信仰です。信仰によらなければ、神の存在も、神の創造もわかりません。

 

 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル書11:1)

 

 アブラハムは神のお告げを聞き、信仰によって、父の家を出て神が示される地に出て行き、神の約束を得ました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、告白していたのです。

 

 地上の寄留者と告白することで、彼が故郷を求めていることを示していました。地上の故郷ではなく、天にある故郷を望んでいたのです。アブラハムは天にある故郷を信仰によって確信していました。

 

 アブラハムは、アダムのように事実を知る者ではありませんでしたが、信仰によって神と神の御国を信じたのです。アブラハムは信仰の父でした。

 

 神は、神のひとり子を地上に遣わす計画を持っておられました。神のひとり子も知っていました。しかし、肉体の中に入ったことも、人になったこともなかった御子にとって、それは未知の事です。父を信じる信仰によって、神の子羊イエスは父に従いました。

 

 アブラハムの信仰によって始まった神の契約は、イエスの信仰によって、事実となりました。ベツレヘムで羊飼いたちは御使いによって救い主が生まれたことを知り、嬰児の主キリストを見て神を崇めました。

 

 ユダヤ人は、神の子羊イエスが病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせるのを目撃しました。イエスの語る天の父や神の御国や永遠のいのちのことを聞きました。イエスは確信をもって語りました。イエスにとって、天の父も神の御国も永遠のいのちも信仰ではありません。事実でした。イエスが見、聞き、味わっていた事実を証したのです。

 

 イスラエルは、神の子羊イエスが父の栄光を現わすのを目撃しました。イエスは、信仰により父に従い通しました。天上で体験したことの無いことばかりでした。神の子羊イエスは、イスラエルに捨てられ、十字架につけられて贖いの血を流し、墓に入り、三日目に甦りました。

 

 イエスの弟子たちは見たのです。神の子羊イエスの栄光を。預言書の預言通りでした。メシアへの信仰が、イエス・キリストに於いて事実となりました。弟子たちは、メシアを見たのです。イエスの言葉と、十字架の贖いと、死と復活と、目の前で昇天される姿を目撃しました。弟子たちにとって、キリストの復活も贖いも、イエスが神の御子であることも事実です。見えないものを信じているのではなく、事実を見て確信したのです。

 

 弟子たちが聖霊を受けたのも事実です。信仰によって信じているのではなく、彼らは体験したのです。体験は、否定できません。紛れもない事実です。

 

 イエスの信仰によって始まったキリストは、弟子たちの事実となりました。アダムが神の存在も神の創造も事実として知っていたように、イエスの弟子たちは、復活のキリストを事実として知りました。彼らにとって、神は目に見えない方ではありません。彼らは神の御子を見たのです。ともに語り、ともに食事をし、ともに生活していた体験者なのです。

 

 キリストを証言する信仰は、弟子たちの事実から始まっています。彼らは実質のない空しいものを宣教したのではありません。彼らは見たこと、聞いたこと、味わったことを証したのです。弟子たちから福音を聞く者たちは、信仰によって受け入れます。

 

 神は聖霊を与え、御霊によって、確信を得させてくださいます。事実に基づいた信仰は、確証を与えてくれます。

 

 御霊が、キリスト・イエスにあって与える信仰は、信仰と希望と愛に満ちており、やがて、信仰が事実となる保証です。

 

 キリストの福音は、事実から始まった信仰であり、御霊の与える信仰は、現実のものとなるのです。そして、父なる神も、神の御国も、永遠のいのちも事実として受ける時が来るのです。その時、信仰と希望と愛は事実と調和することになります。