ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

るつぼは銀のため 炉は金のため

 

「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。

 陰府(よみ)と滅びの淵は飽くことがなく、人の目も飽くことがない。

 るつぼは銀のため、炉は金のためにあるように、他人の称賛によって人は試される。」(箴言27:19-21)

 

 鏡に映った顔は、その人自身の顔です。本人よりも美しく映ったり、醜く映ることはありません。怒っている時は怒った顔を、悲しい時は悲しい顔を、疲れた時は疲れた顔を見ることになります。そのときの状態がそのまま映し出されます。

 

 それと同じように、人の心は、その人自身の顔つきや態度や言葉となって現れます。

 

 イエスは言われます。

 「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。

 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。

 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。

 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。

 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はいっぺんに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものとなりました。」(ルカ6:43-49)

 

 木に良い実を実らすために、農夫は、木に肥しを与え手入れします。実を結ばない枝を剪定し、実のなる枝に栄養が行くようにします。ある時は、木を傷つけて良い木の枝を挿し木して、良い実を結ぶ枝を育てます。

 

 実は、木によって決まります。それで、農夫は、良い木を改良し、良い枝を育てるのです。実を育てることではなく、まず、木を良いものにするように努力します。木が良いものになれば、良い実が取れることを知っているからです。

 

 また、農夫は、良い実を選んで、実のなる枝の多くの実を間引き、良い実に栄養がいくようにします。農夫は、良い実を得るために、傷のある実を取り除きます。良い実を求める農夫にとっては、実の個数よりも、一個一個が傷もシミもしわも無い優良な実を得ることが重要です。

 

 いちじくの木からは、いちじくの実しかとれません。ぶどうの木からは、ぶどうの実しかとれません。その木は、実らす実が決まっているのです。

 

 良い人の心には、良い倉があります。悪い人の心には、悪い倉があります。それぞれ、自分のうちにある倉から出た言葉や立ち振る舞いが現れます。良い倉には良い物があり、悪い倉には悪い物が入っているのです。

 

 人の欲望は、まるで陰府と滅びのように底知れず、深い闇です。欲望は、もう十分とは言うことがありません。汲めども汲めども、尽きることがありません。

 

 人は、純銀を得るために、るつぼ(物質を溶解・灼熱するための容器)に入れます。また、純金を得るために、炉に入れます。不純物を取り除くための工程です。

 

 神は、シミも傷もしわも無い純真な神の子を得るために、称賛によって試されるようです。純銀や純金を得るためには、灼熱の火を通します。人にも焼け付くような苦難を通して、不純なものを取り除いた純真な心を取り出されるのかと思いきや、称賛によって試されるようです。

 

 称賛は、他人に、また、世間に認められた結果であって、その人自身の誉れであり、良いことのように思っていましたが、神の試みだとされます。

 

 神が認められた結果の神の祝福の現われと思っていたら、そこには、霊的な落とし穴がありました。弱くて乏しくて惨めなことが信仰の試みかと思っていたら、称賛によって人の真価が試されるようです。

 

 人は、嵐のような苦難の時に神を求め、称賛の嵐で神から離れるようです。人生で調子の良いときこそ、注意しなければなりません。

 

 わざわいがある時、人は、神の試練だと思い、歯を食いしばり耐えます。そして、主を叫び求めます。しかし、称賛の時、人の心は高ぶり、滑りやすい場所に立っているのです。

 

 神が、人に求められるのは、この世の称賛や成功ではありません。どんな時も、神にへりくだるしもべの心です。

 

 「主よ、主よ。」と言う者が神に受け入れられるのではありません。イエスのもとに来て、イエスのことばを聞き、それを行なう人です。その人は、心の奥深くにイエス・キリストを据え、神への信頼と信仰を、行ないと聞き従いによって建て上げる人です。その人の信仰は、主に守られ、びくともしません。

 

 しかし、聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。土台がないので、大きな苦難やわざわいのとき、信仰はどこかに飛んで行ってしまいます。

 

 みなそれぞれ、信仰が成長しているでしょうが、その真価を試されるのは、主です。