ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストの御霊によって造られる神の子

 

 神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰せられました。

 

 最初のアダムは、神である主が、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれて、生きものとなりました。

 

 陶器師である主が、粘土から器をつくるように、土地の塵で神に似せて、われわれ(父なる神と、子なる神と、聖霊なる神)のかたちに人を形造られました。塵で形造られただけでは、いのちのない人形です。しかし、神は、この人のかたちをした塵、塵で造られた人の鼻にいのちの息を吹き込まれ、いのちある者とされました。見て、聞いて、感じて、動いて、話し、コミュニケーションをとって生きるものとされたのです。

 

 その後、主が、人に深い眠りを下されたので、人は眠りました。それで、人のあばら骨の一つを取り、そのところの肉を塞がれました。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られました。

 

 ひとりの人が、男と女、アダムとエバになりました。ひとりの人の、あばら骨が一つ取られた方をアダム、あばら骨から造られた方をエバと名づけました。

 

 アダムは、自分のあばら骨から造られた女を見たとき、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と言って、大変喜びました。

 

 女は、男と同じ塵から造られたのではありません。人から取ったあばら骨から造られたのです。女は、人のからだの一部でした。女は、もともと人の一部だったのです。

 

 人は塵で造られ、女は人のあばら骨から造られました。女は、人の中にあったものなのです。男は塵の性質を持ち、女は人の性質を持ちます。男は塵から造られ、女は生きるものとなった人から造られたからです。

 

 男の性質は塵に返ります。女の本分は骨です。神が造られた最初の人は、塵の性質と骨の性質を持ちます。神の摂理のまま、土に返る性質と、強い自己主張を持って自然の摂理に逆らって骨で残る性質を併せ持ちます。最初のひとりの人の中に、男と女がいました。

 

 神が息を吹きこまれて造られた最初の人は、男と女に分かれました。同じひとりの人が、男と女という二つのものに分けられました。男は女を自分の一部として己のごとく愛し、女は男を助け、ふたりが一つ心で互いを労わり愛を学ぶためにひとりの人が二つに分けられたのです。

 

 アダムもエバも同じひとりの人から現れた者です。もともと一体だったのです。

 

 神は最初のひとりの人をご覧になって、「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と仰せられて、人から女を造られたのです。神は、人の助け手を、彼自身の中から造られました。

 

 ひとりの人の骨は、神の意思に並んで立つ強情な性質で、塵に返るのは難しいです。塵から造られたものは、塵の性質を持ちます。人の骨から造られたものは、火入れした器のように、頑なです。土の性質が変化したものです。土のような柔軟性はありません。自分というものを持っています。化学変化を起こした土(骨)は、陶器師の御手のわざを拒みます。すでに、自分が出来上がっているのです。

 

 男の助け手として造られた女は、神が創造された人の一部でありながら、人の骨格の一部として主導権を要求します。塵を形造り息を吹き入れられた男は、神の息によって生きるものです。しかし、生きるものから造られた女は、自分が生きていると思います。もともと一体であった男と女の間には一致がありません。

 

 伝道者の書にはこう書かれています。

 「見よ。『私は道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。』と伝道者は言う。

 私はなおも捜し求めているが、見出さない。私は千人のうちに、ひとりの男を見出したが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見出さなかった。

 私が見出した次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」(伝道者の書7:27-29)

 

 神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰せられました。神は、神に似た人を造られるのです。

 

 男と女に分かれた最初の人は、蛇の言葉に耳を傾けて、神に敵対する者(悪魔)に従い、神に逆らう者に似たものとなりました。

 

 神は、神に似た人を造られるのです。神は、神のひとり子に肉体を造り、「人の子」として地上に遣わされました。神の御子は、女から生まれた人の子となられました。

 

 「人の子」は、神に似た人を造るために、最初の人アダムの不義を取り除き、霊にて生きるものを、父のために用意されました。十字架で贖いの血を流し、不義を取り除かれました。信仰をもって神の子羊イエスの贖いの血を受ける者は、義とされます。

 

 信仰によって、キリスト・イエスの死と一体となる者は、キリストのからだの一部分となるのです。主イエスは、死によって肉を打ち砕かれました。肉の呪いを砕かれたのです。

 

 肉の呪いを砕いた子羊イエスは、死に勝利して、復活のからだで甦りました。復活のからだのキリストは、永遠に生きるものです。キリストの死と結び合わされた者はみな、キリストのからだとして、ともに甦るのです。

 

 キリストの死と一つとなることは、肉の性質では出来ません。肉は、甦ることができないのです。

 

 アダムのあばら骨からエバが造られたように、人の子イエス・キリストの御霊からキリストのからだ(神の子ら)が造られます。

 

 父なる神は、御子のために、われわれに似るように、われわれのかたちに人を造られました。御子イエスは、女の呪いを贖うために女から生まれ、人の呪いを贖うために十字架にかかられました。聖霊は、キリストの御霊によって、人に新しい創造を施されます。

 

 旧約に働いた御霊は、永遠のいのちを与えません。聖霊のバプテスマを授けられるイエス・キリストがお与えになった、キリストの御霊が、人を新しく生まれさせ、霊の子として創造されるのです。

 

 父なる神が塵で人を造り、御子が十字架で肉を破り、贖いの子羊の血で肉の呪いを砕き、キリストの御霊が永遠に生きる霊の子を創造されます。こうして、われわれに似るものとして、人は完成されるのです。

 

 キリストの御霊は、イエス・キリストのうちにあるものです。キリストと御霊は一つです。キリストの御霊に教えられ聞き従うものは、御霊によってキリストと一つのものとなるのです。神の御子イエスも、キリストの御霊も、永遠に生きる人(神の子)を創造するために、世に来られたのです。

 

 キリストと一体となるということは、肉の性質では適いません。聖なる御霊(キリストの御霊)と朽ちる肉とが一体になることはないからです。肉なるものが、御霊によって新しく生まれ造り変えられるならば、永遠に生きるキリストのからだの一部分とされるのです。

 

 御霊を持たないキリスト者は、みことばのために困難や迫害が起こってくると、すぐにつまずいてしまいます。キリスト・イエスと人と御霊と、三つよりの糸は簡単に切れないのです。