ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生木と枯れ木

 

 ノアの時代、世界は暴虐に満ちていました。神を恐れない者たちの世界です。神を信じる者はいません。神に立ち向かい神に歯向かう邪悪な人々で満ちていました。

 

 そのような全地が無法の世に、神を恐れる人ノアがいました。神はノアを御覧になられ、ノアを残して、世を滅ぼすことを決められました。

 地上には人の悪が増大し、その心にはかることはみな、いつも悪いことだけに傾いていたからです。地は神の前で堕落し、その道を乱し、暴虐に満ちていました。

 

 神のことばに背いて、エデンの園から追放されたアダムとエバの子孫は、神の子と呼ばれる人間(神に反逆する天使長ルシファーが率いて天から追放された堕天使たちのうち、闇を好まなかった堕天使たちでしょう。)との間に子を設け、世は乱れていたのです。

 

 創造主であられる神は、神を恐れる正しい人ノアとノアの家族と、神が選んだ雌雄一対のあらゆる種の生き物を取り分けて、箱舟の中にかくまい、大水で、世界を滅ぼされました。

 箱舟に入ったものは、神のいのちを受け継ぐ生木であり、大洪水で押し流され滅ぼされたその外のものは、いのちのない枯れ木でした。

 

 いのちの主は、いのちを残し、死を滅ぼされます。神と繋がり生きるものは、いのちを生むために生きながらえ、いのちの神から外れて死んだものは捨てられます。

 いのちあるものには、生み出す力が残っています。生木には、いのちをつないでいくいのちの力があります。しかし、枯れ木には、いのちを生み出す力がないのです。

 

 枯れ木のように見える桜の木が、季節が来ると、芽吹き花を咲かせますが、それは、木にいのちがあるからです。死んでいるように見えても、生きているのです。

 

 一本の桜の木の枝のうちには、みごとに花をつける枝もあれば、一輪の花も咲かせない枝もあります。樹液が通っている生きた枝と、樹液を通すことのできない死んだ枯れ枝です。樹液が通っていても花を咲かせない枝は、枯れ枝とみなされます。

 

 枯れた枝を選定するならば、樹液の通う花を咲かせる生きた枝で整った木となり、春になれば、見事な満開の花で楽しませてくれる、桜の木となるでしょう。

 

 いのちの神は、いのちを楽しまれます。いのちには、神の栄光が映し出されているからです。いのちのないものは、神にふさわしくありません。大地が芽を出させ植物を育むならば、いのちの働きをしています。種が根を生やし芽を出すならば、いのちの働きをしています。いのちの働きをしないならば、それは神の役に立たないものです。

 

 神を恐れるノアは、いのちの神が認められる生木です。しかし、水で滅ぼされた世は、いのちを汚す死人、神の被造物を踏みにじる破壊者たちです。いのちのない枯れ木なのです。鼻から息をしていても、神のいのちの栄光を奪い取る暴虐の者です。

 

 滅ぶ人間は、神が人を造られたのならば正しい者に造り直せばよい、滅ぼすことは正しくないと、神を訴えるでしょう。

 

 神は、ノアとノアの家族から再スタートした世が、再び、悪いものになって行くのを御覧になられました。まことの神(創造主)に背を向け、自分たちが作った神々を崇拝し、創造主に敵対しています。

 

 しかし、ノアの時代にノアを見出されたように、その時代にあっても神は、神を恐れる正しい人アブラム(のちのアブラハム)を見出されました。

 神は、ノアに箱舟を造らせ、大洪水の滅びから救い出されました。

 神は、もはや、水で世を滅ぼすことはされません。ノアに誓われたからです。神は、次は火で滅ぼすと決めておられます。

 

 ノアの時代、ノアの家族以外の者たちは枯れ木でした。神は、枯れ木を水で滅ぼされました。

 そのように、世のすべての者が枯れ木となったときに、火で滅ぼす御計画です。

 

 いつの世も、すべての者が悪くなるというものではありません。暴虐に満ちた悪魔の巣窟のようなソドムの町にも、正しい人ロトがいました。残りのものはいるのです。

 神は、アブラハムと契約を結び、アブラハムの信仰を義とされました。そして、アブラハムの信仰を受け継ぐ者たちを、世を火で滅ぼすときに火の裁きから救い出すことを定められたのです。

 

 神は、アブラハムの信仰を受け継ぐ群れとして、アブラハムの子孫イスラエルを選ばれました。

 イスラエルは、神の御救いが約束された神の選びの民です。イスラエルの救いのために、神は、イスラエル王国を造られます。

 

 神はその王国のために、王となる御自身のひとり子(イエス・キリスト)をイスラエルに遣わされました。イスラエルの王(神の御子キリスト)のイスラエル王国(地上の神の国)の国民を建て上げ、神の国に導き入れるためです。

 

 全地でユダヤ民族は、神のいのちのことばを受ける生木です。ほかの民族は、創造主から離れた枯れ木です。ユダヤ民族は創造主であられる全能の神に仕え、ほかの民族は人間がつくった偶像の神々に仕えていました。

 

 全能の神は、イスラエルとともにおられました。エルサレムは神が御自身のために選ばれた神の御住まいであり、カナンの地は、御自分の民のために選ばれたイスラエルの住まいなのです。

 

 生木のイスラエルのところに来て、神のひとり子イエス・キリストは、言われました。

 「わたし(イエス・キリスト)はまことのぶどうの木であり、わたしの父(イスラエルの神)は農夫です。

 わたしの枝(神の民)で実を結ばないものはみな、父(裁き主なる全能の神)がそれ(枯れた枝)を取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込み(整え)をなさいます。

 あなたがた(神の民)は、わたし(イエス・キリスト)があなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

 わたし(神の御子キリスト)に留まりなさい。(キリストの御霊を受け、キリストのことばを思い起こし、キリストのことばのうちにいなさい。)わたしも、あなたがたの中に留まります。(御霊によってあなたがたのうちに住まいます。)枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがた(神の民)も、わたしに留まっていなければ、実を結ぶことはできません。(義の実は、生かす御霊によって結ばれるのです。)

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしに留まり(イエスの足元でイエスのことばに聞き入っていたマリアのごとく、いつもイエスのことばのうちにあり)、わたし(キリストの御霊)もその人の中に留まっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがた(神の民)は何もすることができないからです。(永遠のいのちを得させるイエス・キリストを離れては、いのちの働き〈神の御霊の働き〉はできません。)

 だれでも、もしわたしに留まっていなければ、枝(実を結ばない枝)のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

 あなたがたがわたしに留まり、わたしのことばがあなたがたに留まるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子(イエス・キリストに従う者)となることによって、わたしの父(イスラエルの神)は栄光をお受けになるのです。

 父がわたし(神のひとり子イエス・キリスト)を愛されたように、わたし(キリスト)もあなたがた(イエスの弟子たち)を愛しました。わたしの愛の中に留まりなさい。(キリスト〈いのちの木〉の樹液〈御霊〉を通す生きた枝となりなさい。)」(ヨハネ15:1-9)

 

 神は、生木(御霊によって生きるキリストのからだ)を生かし、枯れ木(御霊を持たない木や神から外れたいのちのない木)を火で焼かれます。

 

 神の御子イエス・キリストの生木(永遠のいのちの木)に繋がっても、生かす御霊を受けない者は、実を結ぶことのない枯れた枝となります。実を結ぶのは、人ではなく、キリストの御霊のわざだからです。

 実を結ばない枝は、父なる神が取り除かれます。また、実を結ぶ枝はみな、もっと多くの実を結ぶために、御霊による刈り込み(肉〈御霊に逆らう自我、罪の性質〉を殺し、御霊によって生きる者に造り変えられる)をなさいます。

 

 異邦人の場合、もともと神の民イスラエルの生木の枝ではなく、死と滅びに定められた枯れ木の枝でした。枯れ木の枝、すなわち枯れた枝が、イエス・キリストの血と御霊によって、神の恵みのうちに、イエス・キリストの生木につぎ合わされたのです。もともと、いのちのない枝でした。神が火で世を滅ぼされるときに、焼かれる枯れ木の枝だったのです。

 神の御子イエス・キリストに繋がるから生きた枝になるのではありません。キリストの御霊によらなければ、生きた枝になることはできません。生かす御霊によらなければ、いのちの木に留まり続けることができません。キリストの御霊によっていのち(樹液)を得なければ、もとの枯れた枝となってしまうでしょう。

 

 生木(永遠に生きるイエス・キリスト)に繋がる枝ならば、生かす御霊を受けて、生木に繋がる枝となり、義の実を結ぶ生きた枝となりましょう。