ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ダンの救いを祈ったヤコブ

 

 出エジプトしたイスラエルは、成人男性だけでも六十万人と言われています。女子どもを入れたら、百万人は優に超えたでしょう。

 

 大所帯で荒野に入りました。水の湧く所はありません。緑はありません。奴隷の家エジプトを出るには出たが、どうやって生き延びることができましょう。水も食べ物もない荒野で、百万人を超える人々の腹を満たさなければなりません。

 

 何もなければ、皆、餓死してしまうことでしょう。エジプトの人々も思ったことでしょう。彼らは荒野に行って、果たして生き延びることができるのか。腹をすかして野垂れ死ぬか、ある者たちは飢えを満たすためにエジプトに戻って来るだろう、と考えたかも知れません。

 

 エジプトを出る時に、エジプト人から多くの金銀宝石、着物を受け取りましたが、お店はありません。食べ物を買うことができません。宝はあっても、それでお腹が満たされるわけではありません。

 

 最初は、エジプトを出る時の過ぎ越しのパンがありました。小麦があるうちは良かったです。しかし、道なき道をひたすら歩き続ける旅に、新しい食物が必要でした。誰が養ってくれるのでしょうか。

 

 奴隷の家から荒野に導かれた主、イスラエルの神が百万人以上の民を養われたのです。神は、天からマナを降らせました。彼らが食べるパンです。安息日を除いて、毎日マナを降らせられました。荒野をさまよう四十年の間、イスラエルは天からのパン、マナを食べたのです。

 

 岩から水を出し、民の喉を潤されました。イスラエルの神は、全能者です。無から有を生み出すお方です。無いものを造り出されます。

 

 悪魔が、四十日四十夜断食して空腹のイエスに、「この石にパンになれと言いつけなさい。」と言ったのは、イエスが神の子であるからです。イエスは、岩を水の泉とし、岩から水を湧き出させた神の御子なのです。人間に不可能なこと、あり得ないことも、可能な方なのです。

 

 マナは、神の恵み。神がイスラエルを養うことの証でした。イスラエルには、無いものを在るようにされる全能の神がおられます。神は、民の真中におられ、民とともに荒野を行かれました。神がイスラエルを養う神であることを後の子孫に伝えるために、マナは金の壺に入れ、契約の箱に納められました。しかし、契約の箱が失われた頃には、十戒の二枚の石の板しか残っていなかったようです。そのことは、律法だけがユダヤ民族と神の契約として残される、という意味にもなると思います。

 

 イスラエルは、他の国のようになりたいと神に訴え、神に王を求めました。それで、神がイスラエルに王を与えたので、大祭司が民の中心であった神の民は、王を中心とする世の国家のようになりました。

 

 また、ダビデ王の子、ユダ族に生まれた神の御子イエスが永遠の祭司となられたので、レビ族は他の部族と等しく数えられるものとなりました。それで、黙示録7:4-8に書かれている、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者で印を押された者、神に召された十四万四千人のユダヤ人の中に、レビ部族も他の部族と等しく数えられているのです。

 

 レビ族は、神に仕える部族で、神御自身が彼らのゆずりの地であり、他の12部族とは別格のものでした。長子の権利が与えられたヨセフは、二倍の祝福を受けて、ヨセフのふたりの子、マナセとエフライムが、マナセ族、エフライム族として、ヤコブの子として数えられました。弟のエフライムにヨセフの長子の権利が受け継がれたので、エフライムは、ヨセフ族と呼ばれます。

 

 レビ族はマナセ族を含めた12部族のそれぞれの部族に入って、12の部族がそれぞれ、イスラエルの神に仕える民として歩むように指導したのです。

 

 黙示録の十四万四千人の中にダン部族は入っていません。かつて、ダン部族を入れて十二部族に数えられていたイスラエルは、ダンは外され、ダンの代わりに、レビ部族が数えられています。

 

 ヤコブが子らを集めて神のことばを、ひとりひとりの息子を祝福して語った時、ヤコブはダンに、このように言っていました。

 

 「ダンはおのれの民をさばくであろう。イスラエルのほかの部族のように。ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。

 主よ。私はあなたの救いを待ち望む。」(創世記49:16-18)

 

 ダンは他の部族のように、自分の部族ダンを率いるであろう。ダンは、いのちの道のかたわらに潜む蛇、ユダヤ人を惑わす者となり、狭き門(神の御救いの道)に入ろうとする者を堕落させる。

 父ヤコブは、ダンのすえを思って、主の救いを祈りました。

 

 主であられる神が、エバを惑わした蛇に仰せられたことばを連想します。

 「彼(キリスト)は、おまえの頭(悪魔)を踏み砕き、おまえ(神に敵対する悪者)は、彼(キリストのからだ)のかかと(ヤコブの子孫ユダヤ民族)にかみつく。」(創世記3:15)

 

 エゼキエル48章には、新しい世での、部族ごとの割り当て地のことが書かれています。祭司たちへの聖なる奉納地の中央に主の聖所があり、レビの部族の分は、祭司たちの地域に接しています。マナセ族もダン族にも割り当て地があります。

 

 ダン族が消滅したわけではないようです。しかし、終わりの時に、主イエス・キリストのしもべとして、神の国のために、悪魔の子らと戦う部族としては召されてはいないようです。

 

 そのことから、ダン族から偽預言者が出現すると考えます。反キリストの思想を土台とするキリスト教の中に立つローマ教皇が、最後に現れるとされた反キリスト、預言者ダニエルも主イエスも警告された、神の神殿に立つ「荒らす憎むべき者」、つまり、自分こそ神、世界を救う王者であるとする偽キリストが世に現われるための協力者となります。

 

 偽キリストに世界は騙されます。宗教の壁を越えて、世界に影響力を持つローマ教皇が、偽キリストを、平和をもたらす、世界統一の力ある偉大な指導者として認められるように働きかけます。偽キリスト(反キリストであり、自分を神とする者)は、外国の神(ローマ教皇を立てるキリスト教)の助けによって、エルサレムを手中に収めます。ユダヤ人も騙されるのです。ユダヤ人は、彼がキリストであると勘違いするのです。

 

 エルサレムに第三神殿が建つと、偽キリストは本性を現わします。彼は神を憎み、自分を神とする者です。自分の国を持つと、彼は、自分が治める十の国の十人の王と心一つにして、協力者であったローマ教皇と、彼が憎んでいたバチカンを倒し荒廃させ、火で焼き尽くします。それは、神が、神の御心を行なう思いを彼らの心に起こさせたからです。(黙示録17:16,17)偽キリストは、キリスト教を憎んでいたのです。

 

 そして、自分と同じ心を持つ協力者をユダヤ人のダン族から立てるのでしょう。悪魔は、このダン族から出た者に、ローマ教皇と等しい権威を与えます。偽キリストと偽預言者は心一つにして、彼らの神、悪魔に仕えるのです。

 

 この偽預言者は、偽キリストの像を造らせて(おそらく、ダン部族の人々が造るのでしょう)、ユダヤ人たちに拝ませます。

 

 ダン族の人々は、今、イエス・キリストを信じて救われる必要があります。反キリストの仲間に加えられないように、キリストの血で贖われなければなりません。