ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

罪人を招かれるイエス

 

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしは憐れみを好むが生贄は好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。

 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12,13)

 

 これは、律法を守り、神に熱心に仕えてきたパリサイ人たちが、取税人や罪人と一緒に食卓に着いているイエスを見て、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか。」とイエスの弟子たちに聞いた時の、イエスの答えでした。

 

 世間では、イエスがキリストではないか、モーセが聞き従わなければならないとユダヤ人に命じたあの預言者ではないか、と噂されていました。

 

 律法に熱心なパリサイ人たちは、神から遣わされる主キリストが来られたなら、モーセの律法を忠実に守る自分たちは、キリストに賞賛されるだろうと考えていたことでしょう。

 

 ユダヤ人たちが望みを置くモーセも、神の戒めを守るように厳しく命じていました。律法を守らないならば、神の民イスラエルの中で罪人に数えられてしまいます。アダムは、神の命令を守らなかったために、エデンの園から追放され、神の恵みを失ったのです。

 

 しかし、キリストと噂されているナザレのイエスは、今、パリサイ人たちの目の前でユダヤ人の忌み嫌う罪人たち、律法の外で生きている取税人や、ユダヤ人たちから罪人と蔑まれている者たちと一緒に食卓に着いているのです。

 

 アブラハムの時代から、食卓をともにするのは、和解している者の証でした。罪人と一緒に食事をするイエスは、罪人の仲間ということです。モーセの律法を信じ守るユダヤ人たちは、イスラエルの神を、厳格な神として知っていたのです。このイエスの行ないは、厳格な神に逆らうこと、また、聖なる神を汚す行ないに思われました。

 

 イエスは言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」

 つまり、自分は健康だと思っている人は、医者を求めません。治す必要がないからです。身体にどこか異常を来たした者が、正しい機能に回復するために、医者を求めます。病があるから、医者が必要です。

 

 自分は正しい。欠けがない。病がない。罪人ではないと思っているパリサイ人は、真理を知るためにイエスのもとには来ません。自分たちは、真理を知り、真理を教える者です。正規の学びをしていないナザレのイエスから何を学ぶのでしょうか。

 

 それよりも、自分たちの義をイエスに言い表わしたいのです。自分たちは正しく、丈夫で医者が必要な者ではないことを確認したいのです。そして、イエスに自分たちの正しさを認めさせたいのです。

 

 厳格な神を見ているパリサイ人たちに、イエスは言われました。「『わたしは憐れみを好むが、生贄は好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」

 

 イエスは、ホセア6:6「わたしは誠実を喜ぶが、生贄は喜ばない。全焼の生贄より、むしろ神を知ることを喜ぶ。」を引用されました。

 

 サムエルもサウル王に言っています。

 「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼の生贄や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。

 見よ。聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 まことに、背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(サムエルⅠ 15:22,23)

 

 パリサイ人たちは、罪人たちを責め言及することが、神の人のあり方だと信じていました。律法により、彼らの思いには覆いが掛けられていました。律法を神としており、生ける神を知らない者でした。

 

 しかし、まことの神は、憐れみの神であり、裁くことを望んでおられるわけではありません。神の御声に耳を傾けて聞き従うことこそが、神の求めておられることです。

 

 サウルは、「聖絶せよ。」と神に命じられたのに、分捕り物のうち肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで、値打ちのないものだけを聖絶して、その上、聖絶しなかったものを生贄として神に献げようとしたのです。

 

 サムエルは言いました。聞き従うことは、生贄にまさり、神のことばに耳を傾けることは、神が受け入れられる雄羊の脂肪にまさるのです。どんなにすぐれた生贄や奉納物よりも、神に聞き従うことこそが、神の喜ばれることなのです。

 

 神の命令に背くことは、占いの罪。つまり、当てにならないもの、神の霊でないものにより頼む罪であると言っています。

 従わないことは偶像崇拝の罪。つまり、神でないものを神とする、偶像礼拝の罪を犯しているというのです。

 

 イエスの知る父なる神は、生ける神です。憐れみの神です。偶像のように、律法に縛りつけて閉じ込める融通の利かないお方ではありません。義なるお方ですが、愛と憐れみのお方です。厳格な恐ろしい神ではありません。

 

 パリサイ人たちは、父なる神を知りません。神の憐れみを知りませんでした。神を知っていると言っているのに、神を知らない者でした。神の律法は知っているけれども、神御自身のことは知らない者でした。

 

 イエスはパリサイ人たちに言われました。「『わたしは憐れみを好むが、生贄は好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」

 「わたしのところで学びなさい。」とは言われませんでした。「行って学んで来なさい。」と言われたのです。彼らは、彼ら自身の義を持っていたのです。神が遣わされたキリストの義とは別の義です。

 

 イエスは、彼らの信じているモーセの律法から学んで来なさい。あなたがたは、真理を知っている。自分たちは真理の只中を生きていると思っているようだから、自分たちで聖書が何と言っているのか調べればよい、と言われたのです。

 

 神が遣わされた神のひとり子を目の前に見ながら、また、主キリストのことばを直接顔と顔とを合わせて聞きながら、自分たちを正しいとするパリサイ人たちには、理解することができませんでした。

 

 イエスは、神の御心を語りました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 自分を正しいとする人は、神の正しさを知ろうとはしません。自分が正しいから、正しい神にふさわしいと思うのです。しかし、神の義は、神御自身が義であり、神の御子イエスのことばを信じる者を義とされるのです。

 

 律法を守るパリサイ人たちも、神の御前ではみな、罪人です。キリストの贖いの血が必要なのです。罪の贖い無しで自分を正しいとする者は、キリストの贖いの血を卑しめる者です。神の用意された神の子羊イエスを否定する者です。すなわち、聖書の神を信じない者なのです。

 

 イエスは言われました。

 「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)

 

 聖書の知識を持ち、自分を正しいとするパリサイ人は、イエスに招かれませんでした。知識のない者、自分は神を知らず神に受け入れられるはずのない者、聖なる神にふさわしくない者だ、と自分の不義を知る者たちのところに、イエスは来られました。イエスは、自分の不義を知る罪人を招くために来られたのです。

 

 イエスはたとえ話で、自分を正しいとするパリサイ人の祈りも献金も退けられパリサイ人は神に義とされないで、自分の罪に打ちひしがれて、宮に近づくことも目を天に向けることもできずに、自分の胸を叩いて、「神様。こんな罪人の私を憐れんでください。」と祈った取税人が神に義と認められたことを話されました。

 

 イエスは、神を必要とする罪人を招かれます。彼らには、神の救いが必要だからです。彼らは、神の憐れみにすがる者だからです。こうして、罪人は、イエスのことばによって、生けるまことの神を知る者となります。

 

 彼らは、自分のうちに義が無いことを知る罪人であり、イエスの十字架の死によって罪が赦されたことを信じます。罪人は、イエスが自分の罪の身代わりに死なれたこと、そして、自分の罪を赦すためにひとり子を遣わしてくださった神の愛と赦しを知り、父なる神を信じる者とされるのです。

 

 イエスを信じた罪人は、神に義とされ、罪人である自分を義としてくださった神の愛のわざをたたえて、神に栄光を帰する、神の子どもとされるのです。

 

 イエスに招かれた罪人にとって、神は恐ろしいお方ではありません。憐れみと慰めに満ちた愛の神です。また、イエスから、イエスの主である神は、生けるまことの父であることを教えられます。