ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イスラエルに与えられるしるし

 

 イエスが終わりの日について話されると、使徒たちがイエスに質問しました。

 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

 イエスは、偽キリスト、偽預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことを見せることを語られました。

 また、言われました。

 「その日には、その苦難に続いて、太陽が暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。

 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マルコ13:24-29)

 

 イエスは、弟子たちに前もって話されました。

 天の万象に変化があることで、世界の人々は顔色を失います。しかし、聖書を信じる民は、聖書に預言されていることが起ころうとしていることを悟るのです。

 

 主キリストが送られる御使いたちが、地の果てから天の果てまで、四方から選びの民を集めます。天の果てとは、空を飛んでいる乗り物の中にいる状態の神の子のことでしょうか。あるいは、神に立ち返り、光の天使の働きをしている堕天使(天使長ルシファーとともに光から追放されて闇に落ちたあと、再び神に仕える天使となることを切望して悪魔の支配から出て、人の子たちのために良い働き(祝福)をしている堕天使)のことでしょうか。

 

 これは、神の子らが見るしるしです。

 御霊の教会のある人々に、神は、「携挙(生きたまま空中に引き上げられる)」の信仰を与えておられます。それは、聖霊によって与えられた信仰です。自分の肉を殺して御霊に忠実に聞き従う、生ける殉教者たちです。神に忠実な者たちの中から選ばれた人々です。御霊の教会の一つ、フィラデルフィア教会に属する人々でしょう。

 

 それ以外の教会の人々は、死を通して天に引き上げられるのです。ですから、携挙される教会に属していない人々には、携挙のことは知らされていません。だから、携挙の信仰を持つ人々の信仰を怪しみますが、それは、属する御霊の教会の違いによるものです。

 

 携挙される教会の人々は、からだも贖われた人です。つまり、肉を殺して聖霊の導きに従う人々です。この世にありながら、天上の声に従って歩みます。それゆえ、地上に属する人々には理解できません。聖霊とともにあることで、地上の人々の常識の外にいるからです。

 からだの贖われた人々は、一瞬にして、栄光のからだに変えられて天に引き上げられます。肉体の死を通ることがありません。彼らは、生きたままで、主のために死を体験しているからです。

 

 聖霊に聞きながらも、この世の人々の常識の範囲で従う人々のからだは贖われていません。霊は神とともにあっても、肉(自分の知恵、この世の常識)を握ったままです。その場合、肉体はまだ、天に上る用意ができていないことになります。それゆえ、死によって贖われなければならないのです。

 

 生きたまま天に引き上げられるという携挙の信仰を持つ人も、携挙なんて起こらないという信仰を持つ人も、ともに正しいのです。それぞれ、自分に割り当てられた信仰によって、主を知っているのです。

 

 「いちじくの木から、たとえを学びなさい。」と主イエスは言われました。

 いちじくの葉が出て来ると、夏の近いことがわかるように、神は、イスラエルの中に、終わりのしるしとして、また、主イエス(メシア)がもうまもなく来られるしるしとして、この携挙の教会を備えておられるようです。

 

 ユダヤ人には、二種類の信者がいます。ユダヤ人のアイデンティティーを持ったままでイエス・キリストを信じるユダヤ人と、もはやユダヤ人も異邦人もないと考えてユダヤ民族の選民意識を持たないでイエス・キリストを信じるユダヤ人とがいます。

 

 ユダヤ人のアイデンティティーの中にいるキリスト信者を「メシアニック・ジュー」、異邦人と区別しない考え方をするユダヤ人のキリスト信者を「ユダヤ人ビリーバー」と呼んで区別しているようです。

 

 ユダヤ人ビリーバーは、メシアニック・ジューから低く見られがちです。イエスの時代のユダヤ人が、純粋な血統のユダヤ人をイスラエルとし、異邦人との混血のサマリヤ人を蔑み、イスラエルに加えなかったのと似ています。

 

 しかし、ペテロたち使徒が割礼の民ユダヤ人のための宣教をゆだねられ、パウロが無割礼の異邦人の使徒として召されていたように、二つの働きは相容れぬもののようであって、実は、一つの御霊の働きなのです。

 

 イエスは言われました。

 「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」(マタイ21:31)

 

 メシアニック・ジューとユダヤ人ビリーバーには交流がないのでしょうか。いえ、同じ主キリスト・イエスを信じるユダヤ人です。互いに互いの存在を知っており、また、互いに知られているのです。

 

 神は、まず、異邦人を引き上げられます。律法を守るのに厳格なユダヤ人たちから忌み嫌われていた取税人や、神の選びに入らないと蔑まれていた遊女たちのほうが、ユダヤ人より先に神の国に入るのです。

 

 異邦人の時が満ちると、ユダヤ人の働きの時となります。ユダヤ人が主キリストのために、全世界に出て行って福音を宣教するときです。

 

 その前に、神は、携挙という方法で、メシアニック・ジューたちに時が満ちたことを知らせられるのだと思います。選民ユダヤ人としての蔑みと同胞として大丈夫かと心配していたユダヤ人ビリーバーたちの姿が地上から消え去ったのです。彼らはどこへ行ったのでしょうか。

 

 ユダヤ人ビリーバーの存在は、ユダヤ教徒の目には入っていません。しかし、メシアニック・ジューに見られていました。

 ユダヤ人ビリーバーの存在を認識するメシアニック・ジューの中には、ユダヤ人ビリーバーの身に起こったことで、彼らが信じていた携挙が実現したのではと気づく者たちが現われます。

 

 世界中の人々の中で、メシアニック・ジューは、イエスの言われた終わりの時のしるしを見つける者です。彼らは、ユダヤ教徒たちをキリストに導くために立ち上がることでしょう。

 

 ユダヤ教徒にも、イスラエルの神の契約の中にあってイエスをメシアと信じるユダヤ人(メシアニック・ジュー)にも、異邦人にも属さないユダヤ人ビリーバー。ユダヤ人ビリーバーは、ユダヤ人のクリスチャン、または、クリスチャンのユダヤ人と呼ばれる者ではなく、ユダヤ人の中のキリスト信者という位置に立っています。

 

 世は、滅びに向かいますが、イスラエルは、メシアを迎える時が近づいたことを知ります。イスラエルのうめきに、イエス・キリストの信仰をもって支えるのが、メシアニック・ジューならば、その働きの時が近づいたことを知らせてメシアニック・ジューに備えさせるのは、ユダヤ人ビリーバーの携挙ではないのかと思います。

 

 異邦人の携挙は、メシアニック・ジューの信仰に影響力が弱くても、ユダヤ人ビリーバーの携挙は、同胞ユダヤ人の心を揺さぶります。

 

 ユダヤ人ビリーバーの携挙は、イスラエルの思いを神に向けさせ、終りの時の宣教のことばに備えさせるためのイスラエルに与えられるしるしのように、思われます。