ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

生ける神を体験しよう

 

 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

 

 聖書の神は、生けるまことの神、霊なる神です。目に見える偶像とは違います。偶像に慣れ親しんだ人にはわかりません。霊なる方を捉えることができないのです。聖書の神、主は、まことの神を知らない人々の拝む偶像の神々について、仰せられます。

 

 「それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。

 そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ10:3-5)

 

 霊なるまことの神を知らない人々は、偶像の前で腰をかがめ、その名を呼び、その力により頼みます。

 

 しかし、生けるまことの神は仰せられます。「そんな物は、わざわいも幸いも下せない。」

 生ける神は、永遠の神であり、天の神です。

 偶像の神々は、火で燃えれば消失する、地上の神々です。

 

 「主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。」(エレミヤ10:10)

 

 地上の神々は、滅びゆく地上のはかない時間に、わざわいを与え、人間の望む幸いを与えているように見えますが、実は、そのわざわいも幸いも地上のことであって、やがて、地とともに滅びます。

 

 生けるまことの神の怒りが下れば、地は震え、その怒りに国々は耐えられないのです。国々が結集しても、生ける神を取り押さえることはできません。

 

 「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」(エレミヤ10:11)と生けるまことの神であられる主は仰せられます。

 

 生ける神の与える「わざわい」は永遠の刑罰、永遠の火の池です。生けるまことの神の与える「幸い」は、天の御国です。

 

 天地万物を造られた生けるまことの神は、永遠の居場所を定める唯一の神です。また、霊なる神です。霊なる神を入れる偶像はありません。また、いと高き神は、人間が手で造った家にはお住みになりません。(使徒7:48)

 

 主は、預言者イザヤに仰せられました。

 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。

 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。

 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべては、わたしのものだ。」(イザヤ66:1,2)

 

 神は霊です。しかし、肉体を持つ人間は、肉眼で見えるものを慕うのです。

 

 ユダの王ヒゼキヤが、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いたことが、列王記に書かれています。その頃まで、イスラエル人は、これに香を焚いていたのです。

 

 「ヒゼキヤ王はすべて先祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は高き所(礼拝場)を取り除き、石の柱を打ち壊し、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香を焚いていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(列王記二18:3,4)

 

 人は弱いものです。目に見えるものにより頼みます。

 荒野のモーセは、毒蛇に噛まれた不従順な子らの救いのために、青銅の蛇を造りました。主の仰せられたとおり、青銅の蛇を仰ぎ見た者は、毒蛇に噛まれても生きたのです。青銅の蛇を仰ぎ見なかった不信仰で不従順な者は死に絶えました。

 

 荒野で神は、モーセに十戒も与えておられます。

 神は仰せられました。

 「わたしは、あなた(イスラエル)をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなた(イスラエル)の神、主である。

 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:2-6)

 

 しかし、イスラエルは、青銅の蛇を拝む対象にしていたのです。毒蛇の裁きから救い出してくれた青銅の蛇を偶像にしていたのです。

 上の天にあるもの、すなわち、天の神をあらわすものであっても、形を造ってはならない、と主は言われます。

 

 ヒゼキヤ王は、主の目にかなうことを行ないました。イスラエル人の心の支えであったネフシュタン(青銅の蛇)を打ち砕いたのでした。イスラエル人の心を縛っていた偶像を打ち砕いたのです。

 

 キリスト教会も同じ罪を犯しています。神は生ける神、霊なる神であるのに、いばらの冠を頭に十字架につけられたキリストの像の前でかがみます。まるで、その像が生きている神であるかのように慕い崇めるのです。

 

 イスラエル人の心が青銅の蛇を拠り所としていたように、イエス・キリストの民は十字架を心の拠り所とします。十字架は救いの象徴であって、キリストの治められる神の国の紋章のようなものです。紋章が救いではなく、生けるまことの神が救ってくださったのです。

 

 生ける神は、霊であって、生かす御霊です。目には見えないけれども、生きて働かれる神の霊です。

 

 神は、御霊をいのちのない偶像の中に入れたりなさいません。御霊は生きておられる神です。いのちのないものの中にはおられません。

 

 生ける神は、イエス・キリストの贖いの血によって義とされ、生かす御霊(キリストの御霊)によって生きた者となった人のうちに、御霊を住まわされます。

 

 キリストの御霊は、いのちのある肉なる者のうちに来られ、肉を砕いて、永遠に生きる神の子どもに造り変えてくださいます。

 霊なる御霊の御住まいは、神の御子イエス・キリストによってまことの神に立ち返り、神の交わりに入った者のうちにあるのです。

 

 生ける神を求めて、目に見えるものの間を捜しまわることはやめましょう。

 イエスがいつも静かなところで父なる神に祈られたように、ひとり静まり心を目に見えない主に向けて、心のうちを打ち明けてみましょう。

 

 生ける神、霊なる神、目に見えないけれども確かにおられる、もうひとりの人格者(正確には神格者)がうちにおられることを体験していくことでしょう。