ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠のいのちは天の国籍

 

 「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:18-20)

 

 肉なる人の欲望は、この世の繁栄を求めます。それで、「イエス・キリストを信じます。」と告白しても、この世の楽しみや欲望を遠ざける信仰の歩みを蔑み、自分の欲望のままに歩みます。彼らは、「信仰の道には自由がない。」と言って、この世の人を羨ましく思うのです。そして、この世の人々の自由を求めます。その結果、火の池で苦しむことになります。

 火の池で彼らは、神を呪うのです。「なぜ、神は人を神に従う者として造らなかったのか。神が本当に人を救いたいと願うならば、初めから自由意思を与えるべきではなかった。ロボットのように、意思を持たず、神のことばにのみ反応し従順に仕える者として造ればよかったのだ。」

 奴隷のように神に仕えるのは真っ平ごめん。人には自由意思があるのだから、自分の人生は自分で決めるのさ。これこそが自由というもんだ。と自由に憧れ、自分の十字架を負うことを憎み神の御霊に敵対した者は、この世の自由の報酬である燃える炎の中で、自由意思を与えた神を呪うのです。

 

 この世の人々の目には不自由な生き方に見えますが、御霊を迎え入れて御霊とともに歩む人は、罪の縄目から解放されて魂の自由が約束された永遠の天に向けて備えているのです。

 

 イエス・キリストを信じ永遠のいのちを受ける者の本当の国籍は天にあるのです。

 キリストの御霊を宿す人は、御霊の思いを受け取ります。御霊が永遠のいのちなので、御霊を受けた人もまた永遠のいのちを約束されていることを知るのです。

 

 地上に国々があって、人はそれぞれ国籍を持っています。天の御国にも国籍があります。その国籍が永遠のいのちです。永遠のいのちを持たない者は、天の御国に入ることができません。

 

 神の御子イエス・キリストは、この世に現われた永遠のいのちです。いのちの根源である神の御子が死人たちの世に現われてくださったのです。

 永遠のいのちは神のものです。神の造られた被造物で、自ら永遠のいのちを持つものはありません。地上で生きる限りある命でさえ、自分でコントロールできないのです。被造物はみな、アダムの堕罪によって、死の中に入れられました。。被造物には、死が定められているのです。

 

 救い主イエス・キリストはこの世を去って天に上られましたが、弟子たちに約束しておられました。永遠のいのちを与えるもうひとりの助け主をキリストを信じる者のうちに遣わすということです。

 

 イエス・キリストが地上を去ると、地上は永遠のいのちの存在を失いました。永遠のいのちによらなければ、どうして永遠のいのちへの道がわかるでしょうか。神の御子イエスから、永遠のいのちの約束をいただきましたが、それを得るためにはどうしたらよいのでしょうか。

 イエス・キリストを信じると告白しても、道を見出すことができません。

 イエスは弟子たちに命じられました。「父が約束してくださった聖霊を受けなさい。父が与えられるもうひとりの助け主(御霊)を受けよ。」です。

 

 父なる神は、永遠のいのちの御子イエスを天に引き上げると、地上にもうひとりの永遠のいのち(真理の御霊)を遣わされるのです。

 

 「この方(主イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)と聖書にあります。

 

 神の子どもの候補者として選ばれたということです。しかし、神の子どもの候補者たちは、永遠のいのちを受けなければ、天の御国に入ることができません。永遠のいのちが天の御国の国籍なのです。

 

 イエス・キリストを神の御子と告白する者は、神によって新しく生まれた者です。信仰によって義とされて、天の御国を目指す資格を得たのです。

 資格を持つ者は、天の御国に入るために、天の国籍をとる必要があります。その国籍を与えるのが、もうひとりの助け主です。

 

 聖霊御自身が神であり、キリストの御霊を宿す者は、永遠のいのちを宿す者です。御霊を持つ者は、天の御国を目指して歩んでいるのです。彼らの心は、天にあり、地上では旅人であり寄留者であることを知っています。

 

 御霊を受けたからと言って、必ず天の御国に入るわけではありません。いのちの道を知らせてくださるキリストの御霊に聞かなければ、正しい道を歩むことができません。

 天に続くいのちの道は、天から来られた御霊によらなければ見出すことも歩むこともできないからです。永遠のいのちのことは、永遠のいのち(キリストの御霊)に聞かなければ理解できません。また、地上に遣わされた永遠のいのち(キリストの御霊)から受けるものなのです。

 

 ペテロは言います。

 「愛する者よ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、魂に戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」

 

 イエスのことばを思い出しましょう。

 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(ルカ13:24)

 また、言っておられます。

 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。

 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:13,14)

 

 父なる神が遣わされたもうひとりの助け主(聖霊)を受けて、キリストの御霊に聞き従うことが、神が設けられた天の御国に続くいのちの道に入る狭い門なのです。

 この狭い門から入る人は、もはや神の子どもとされる資格を受けた候補者ではありません。神の子どもとして、新しい創造を受ける人です。

 

 御霊による新しい創造が、永遠のいのちを得て、天の国籍を得るものです。

 

 「奴隷の家エジプトから救い出されたイスラエルの六十万人の成人男子のうち、約束のカナンの地に入ったのは、カレブとヨシュアのたった二人だけだった。」という聖書の教訓を活かしましょう。